旧石器時代人、縄文人、国際寛容デー〔7154〕2022/11/16
2022年11月16日(水)晴れ!
昨日、愛媛県の山中、国道33号線沿いにある上黒岩岩陰遺跡のこと、書きました。その遺跡からは、縄文早期の、投槍が刺さった腰骨が出土して話題になったと言います。腰骨に槍。その状況から、男性の骨と想像されていた訳やけど、その後の調査で経産婦の腰骨であり、生前か死後まもなく刺突されたものらしい、ということがわかってきたと言います。そうだとするならば、それは戦いとか争いとか事故とかではなく、なんらかの宗教的意味があったのではないか、と推測される訳で、縄文人の精神性、社会、メンタルを考える上で貴重な発見になるのかも、知れない。
上黒岩岩陰遺跡は、仁淀川の上流にあたる久万川沿いに存在します。高知でも、旧石器時代の遺跡は物部川沿い、それも洞窟や岩陰に、多く存在することがわかってます。当時の食生活は、狩猟によって捕らえた動物、ドングリや栗などの堅果類、そして貝類や魚などによって支えられていた訳で、そういったものを得られる条件の良いところを求めて、山深く移動していったんでしょうかね。拠点は、安全な洞窟や、岩陰。競争の少ない、効率的に獲物が得られる場所を求めて移動した、人々。
こないだ、瀬戸内に多くの旧石器時代遺跡が存在する話、書きました。本州と四国が歩いて往来できていた時代。そしてその後の、瀬戸内に干潟や池がたくさん存在していた時代、その界隈は、暮らしやすかったんだろうと思われます。しかし、その過ごしやすさから、人口が増え、獲物の争奪が始まったでしょうか。そんな争いを避け、人が少ない、しかしそこそこ獲物が得られる土地を求めて、四国山地の山深くへ入り込んでいった人たちが居たでしょうか。
分水嶺を越え、南へ流れ落ちてゆく川沿いに、いくつかの拠点をつくりながら南下していったのかも、知れません。それはいくつものグループに分かれ、それぞれ拠点を転々としながら、それなりに豊かな暮らしを築いてゆく。南へいったグループは、突然目の前に現れた広い広い海に驚いた。かもしれない。そして、海岸沿いにも拠点をつくりながら暮らしていった、旧石器時代人、縄文人。
上黒岩遺跡で出土した槍が刺さった腰骨が、争いのものではなく宗教的なものであったとるすならば、当時の人たちは、グループ同士で争わず、折り合いをつけながら、そして協力し合いながら、暮らしていた。のかも、しれない。少なくとも、弥生以降の集落間の関係よりは、かなり平和的だったのではないか。違うかも知れんけど、そうであったと想像するのは、なかなか楽しいね。
今朝の高知新聞にありました。今日は「国際寛容デー」。人類の「争い」の歴史は、「寛容」という知恵によって、なんとかできないんでしょうかね。昨今の情勢のなかで色々と考えさせられる、「国際寛容デー」。