得月楼があった風景〔7121〕2022/10/14
2022年10月14日(金)晴れ
稲荷新地。
昨日、宝永町歩道橋の上から電車通りの夜景を撮影しました。あそこの東、知寄町2丁目電停は、戦前は、「新地通り」という電停でした。そして、新地通りと稲荷新地の間を、「新地線」という路面電車が走っていた、という話は幾度か書いてきたので皆さんご承知のことと思います。
何故、「新地線」があったのか。
それは、稲荷新地が、明治になってできた高知有数の歓楽街であったこと、そして、その海岸は巡航船などの船の発着場となっていいたことが、理由になると思います。
かの馬場胡蝶さんが、高知へ帰郷した際、いろんなところで飲んで食べた後、船で稲荷新地に戻ってきて電車で帰った話など、日記に残ってます。なんという優雅な世界。憧れてしまう。
その稲荷新地でも最大規模を誇ったのが、ご存知得月楼。元々は「陽暉楼」で、谷干城さんが「得月楼」と命名したのは有名な話ね。映画の舞台にもなった陽暉楼は、明治から大正にかけて、西日本随一とも言われた規模を誇る料亭。遊郭。巨大な夜の城。
その頃の地図を今昔マップで見てみよう。明治後期のこの地図を見る限り、この広大な一角が得月楼(陽暉楼)であったと思われます。なんせ、西日本随一の料亭と謳われたくらいなので、ここでしょう。実際現地へ行ってみると、本当に広い。
今朝、写真を撮ったのは、ここ。この十字の場所。ここから南向いて撮影したのがこの写真。同じ場所をこの今昔マップで見てみてください。いかがだろうか。ここはまさに、得月楼の敷地内だ。なんなら、あの向こうに見えるマンションも敷地内で、その向こうの海岸通に面して正面玄関があったのでした。
そういう歴史に鑑みながら、今昔マップで見比べる。
すると。この不思議な、L地型で行き止まりになった道路。この不思議な公道の地形は、かつての得月楼の敷地に由来するのではないか、などという妄想が浮かんでくるんですね。全然関係ないかも知れんけど。
真相はわからんけど、この場所に、あのマンションの向こうまで広がる敷地に、数百人の芸妓さんを抱える大料亭があったとすれば、それを想像するだけで楽しいね。
ここで遊んで新地線の電車に乗って帰った明治の人たち。お金持ち達は人力車で帰り、そうでもない人たちは、電車で帰った、かも知れない風景。