比江、国分、国分川〔7069〕2022/08/23
2022年8月23日(火)晴れ!
週間予報は雨マークが多いのに、実際には晴れた日が続く、そんな夏。善き哉善き哉。
会社の界隈でもツクツクボウシの声が聞こえるようになった夏の終わり。早朝の東野空には、冬の大三角形が大きく大きく輝いてます。
さて。昨日、土佐の中心集落が田村から比江界隈へと移っていった理由について妄想しました。そこで今朝は、比江界隈の写真を撮影してきたのであります。夏の日差しの下。
ここは、紀貫之も住んだという国庁跡。ここから南にかけて、広大な国庁関連施設が広がっていたことは、現在のホノギ名を見ても、理解できます。Googleマップで見るとこうなってて、地理院地図で見たら、こう。この十字の場所が、写真を撮っている現在地。国庁跡の公園。
そして、同じ地図を地形分類図にしたら、こう。
比江山の東、北から流れてくる領石川と、北東から流れてくる新改川が、山と更新世段丘に挟まれた狭隘地で合流し、国分の平野南側を西へ流れて浦戸湾へ。
この地形で連想するのは大阪と京都の間の大山崎。そこを地形分類図で見たら、こんな感じ。この山と段丘に挟まれた狭隘地を淀川が流れ、すべての道路や鉄道も、ここを通っています。つまり。交通の要衝であり、北に天王山があることでわかるように軍事的にも重要な場所。
この、比江山と更新世段丘に挟まれた場所も、同じような戦略的重要地点であり、交通の要衝であったでしょうか。そして、この狭隘地で集められた川の流れは、狭隘地を過ぎると、南が低くなった平野の南部を流れてゆく。その平野の北へは、なだらかに高くなっていく地形で、その高くなった場所に、国庁。
もちろん国分川の水運は重要だったでしょう。古墳時代以降、扇状地に広がる農地と、それを支配する有力者の居住区は離れていった。寒冷湿潤期、洪水が多発するようになった香長平野から、政治の中心は、この、水運のは便利やけども洪水に強い、農地からも遠くない場所に移ってきたとする想像には無理がないと思うんですけどね。
この、狭隘部分が、そこから下流北部を洪水から守っていたのではないか。
比江という地名は、京の都からこの国庁へやってきた、紀貫之のような貴族が、その北にある山を比叡山に見立てて比叡山と呼んだことに由来する、と言います。ここが、古代土佐の政治的中心となったから、比江という地名が生まれた訳だ。
そして、ここが、古代土佐の政治的中心となったのは、この写真の向こう側(左が比江山で、右が段丘)の狭隘地形があったればこそ、と、想像したりする夏の朝。
ものごとには、理由がある。そんなことを思いながら、仕事をはじめよう。今日も暑いね。