田村から国分への理由を地形分類図で妄想する〔7068〕2022/08/22
2022年8月22日(月)晴れ
暑いねー。蒸せます。昨日の高知市南国市界隈、雨が予報やったのに、ほとんど降りませんでした。お日様ギラギラで、湿度は高くて暑かった。この暑さでコロナもおとなしくなったらいいのにね。そんな訳で月曜日。今週も始まりました。
弊社が所在するのは南国市物部。物部という地名は古く、物部氏に関係する部族が広く住んでいたのは、たぶん、間違いない。物部川の扇状地で、物部川の水の恵みを甘受していた人々が想像できます。
それ以前。弥生時代には、この南南西、田村地区に、広大な弥生集落がありました。この地形分類図で見ると、物部川沿い微高地、広くなった自然堤防上に展開していたことがわかる、南四国最大級の規模を誇る弥生集落。
ところが、弥生時代の終焉とともに、そこからは集落が消え失せてしまいました。その理由は、色々と考えられてきたけど、最近の僕は、気候が関係するのだと思っています。
近年、過去の気候に関する研究が進み、弥生時代までだとかなり解像度の高い気候データが得られるようになってきてます。それによると、弥生時代末期、日本列島では寒冷湿潤化が進んだことがわかっています。気温が低めで降水量が、多い。
すると何がおきるかというと、洪水だ。
物部川は、野中兼山によって集約化、直線化が為されるまでは、小さな流れが網の目のように流れていたと推察できます。この地形分類図のイメージね。そのたくさんの小さな流れが、ひとたび大雨が降ると氾濫し、巨大な洪水を引き起こしていたでありましょう。で、弥生終盤には、そんな大洪水が頻発していた、かも知れない。
弥生後期になると、全国で高地性集落が増えるのは、降水量の増加が原因ではないか、という説が近年でてきてます。居住区を、洪水に強い高地に移したから高地性集落。で、田村で暮らしていた人々は、洪水の被害に遭いにくい、それでいて稲作には便利な土地を求め、移動していった、かも知れない。
そして田村ではない、いろんな場所から集落の遺跡が出現するようになった、古墳時代。
国分寺の東側から比江にかけても、その時期に竪穴式住居が増えました。そして、そこが、いつしか土佐の政治の中心となってゆく。
なぜ、あの場所が土佐の中心になっていったのか。
それを、この地形分類図から妄想してみました。
まず、古浦戸湾と直結する国分川の水運が大きな利点であったでしょう。そして国分川の水が、農地を灌漑する。では、洪水はどうだったのか。ここからが今朝のハイライト。これをご覧ください。比江の東のボトルネック。そう。新改や領石から流れてきた川は、山と更新世段丘に挟まれたこの狭いボトルネックで合流し、そして南西の扇状地へ。
その為、ボトルネック出口の北側は、洪水に強い土地になったのではないか。ボトルネック出口の南側が国分川の水を利用した豊かな農地となり、北側は洪水から守られる。そこに有力者が住み、少し離れた土地を耕作する農民を支配するようになり、国分川の水運を利用して大和朝廷とつながり、中央政府とつながり、そこが土佐の政治の中心地となっていった。という妄想。このボトルネック地形がもたらした国府、という妄想。
地形分類図って、眺めているだけで楽しい。妄想が暴走して止まらない。
今は月曜の早朝、4時過ぎ。そろそろ妄想は止めて、仕事を始めます。月曜ですきんね。