大街道、唐人町〔7014〕2022/06/29
2022年6月29日(水)晴れ!
それにしても。昨日の梅雨明けには驚いた。驚きました。ビックリ。吃驚。
だって、梅雨入りしたのが今月の13日なので、まだほぼ2週間。なんだそりゃ。予報によると、まだ梅雨の戻りみたいなのはある、と書いてるけどね。そりゃそうだ。農作物、困りますきに。でもまあ、酪農乳業にとっては善き哉善き哉。
そんな訳で、松山。昨日の午後から、愛媛の松山へ来てます。今朝から高知で仕事があるので、早朝起きだして、もう高知へ帰ってますが。
ここは今朝の大街道。松山一の、繁華街。商店街。高知で言えば帯屋町。やけど人口多いですきんね。帯屋町よりも随分と人の多い、大街道。もちろん今は早朝なので、静かな静かな大街道。
この「大街道」という地名は、ウィキにはこう書いてます。「大正時代初期に用水路が埋め立てられ、広い通りができて、松山随一の商店街を形成した。このころ大街道という通称が定着したと伝えられる。」
つまり、この「大街道」という名称は、大正の頃から定着したものだ、と書かれてます。
藩政期、松山城からのメインストリートがここにあったので、昔から「大街道」と思っておりましたが、どうやらそうではないみたい。明治になり、高知の帯屋町のように徐々に商店街が形成され、そして今、松山一の繁華街になったのが「大街道」なのでした。
この、地面に描かれている地図。この中央真下の水路。ここが埋め立てられた水路で、現在の大街道なのでありましょう。
今昔マップで、明治後期の地図を見てみました。そこには、ハッキリと「大街道」と描かれてます。つまり、大正になる前に、既に「大街道」という名称は、一般的になっていたことを、この地図は教えてくれます。そしてこの通りには、もうひとつ。「唐人町」という名前もつけられてました。
調べてみると、真相は不明やけど、江戸時代最初の城主、加藤嘉明が、秀吉の朝鮮出兵の際に連れ帰った人々が住んだから、唐人町と呼ばれるようになった、という説が一般的にかありません。
そうか。高知の唐人町と同じだ。
高知の場合は、江戸幕府ができて高知の城下町がつくられた際に、鏡川北岸に豆腐づくりの特権を与えられて街を形成した、という具体的な話が伝わっちゅうけど、ここ松山ではそんな詳しい話は、でてこない。ネットで探しても。
高知の場合は、連行されてきた一族の名前とか、唐人町に豆腐作りの特権を与えられて住んだとかがわかってて、その最初の人物のお墓まであるのにね。
松山では、唐人町という名前はあっても、もはや伝説でしかないのか。
さあ。梅雨明け。暑いけど、仕事を始めよう!