大湊〔7011〕2022/06/26
2022年6月26日(日()曇り
今日も暑いっすね。蒸せます。このまんま梅雨が明けてくれたら業会的には嬉しいけど、まあ、週間予報とか見るとまだまだ。頑張って梅雨を乗り切ろう。
今朝は会社に来てて、来る途中、前浜に寄ってこの写真を撮ってきました。前浜バス停のすぐ北側。ここ。この立札にはこう書かれてます。
「『土佐日記』大湊泊地跡の松。承平五年(935年)紀貫之が都への帰路『大湊』に寄港した史実を偲び植樹」
そう。ここが紀貫之が寄港した「大湊」である、とは書いてません。この界隈ではないか、というのが有力な説ではあるけどキチンと特定できていない。当時、ここがどういう地形、地勢の場所であったのかは、この地理院地図の治水地形分類図とかで想像するしかないのが実情。
どうでしょうか。この十字の場所が現在地で、「大湊」に比定されている場所。どうでしょうか。中世、細川氏が守護代屋敷を構えたのは、ここからまっすぐ北上した自然堤防上。その南西にはラグーンが広がり、小舟が行き交う都市が形成されていたのではないか、などと妄想した話は以前にも書いた気がします。
さて。この治水地形分類図を見ると、「大湊」の候補地って、いくつか想像できると思います。太平洋の荒波を避ける、それでいて土砂の堆積に悩まされないような土地。当時の物部川は、このすぐ南東、現在は水門になっている「切戸」で、太平洋に流れ込んでたと思います。すると、河口は、土砂が堆積しやすいからダメ。その河口から少しだけ横に入り込んだ場所、というのがベストな条件。とすると、確かにこの場所も、条件に合います。
そんな訳で、「大湊」を発見するための発掘調査ってやらんのでしょうかね。その「大湊」がどんな港で、どういう物がどんな風に運ばれていたのかが判ると、古代から中世にかけての土佐の社会構造、産業構造の風景が見えてくる気がするけど、どうなんだろう。
昨日も書いたように、現代の僕らからは想像できないくらい、海運、水運は日本人にとって重要だった。京と土佐の間を、定期異動のたんびに、普通に大きな船で往来していた貴族たち。エンジンもないのに。海賊も多いのに。
海運、水運がわからないと、歴史がわからない。風景が想像できない。などと思うので、いつか、何かの機会に「大湊」の調査が行われることを期待したいと思う、梅雨の朝。