桂浜が月の名所になった理由(妄想)〔7010〕2022/06/25
2022年6月25日(土)蒸せる
暑いっすね。湿度も高くて寝苦しい夜でした。昨夜は、御畳瀬で食事して、車を置いて来てました。なので今朝、早朝起き出して御畳瀬まで10kmラン。いやー、暑かった。汗ビショで、身体の中の悪いものが全部排出できたような心地良さ。さあ、風呂入って、用事をはじめよう。
そんな訳で、この写真は長浜。この、昭和10年に架橋された「御蔵橋」の上から撮影しました。御蔵橋。おくらはし。界隈に、大きな蔵があったんでしょうな。左手に見える巨木は、宇賀神社に聳えるクスノキ。宇賀神社には宇賀の長者伝説があったりするので、とにかくこの界隈、なんか知らんけどリッチな匂いがするのであります。かつて、この界隈には富裕層が住んでいた、そんな匂い。
この宇賀神社だけでなく、深浦神社とか、とにかく長者伝説が多いのが、この界隈。「手結山の火」という言葉も、宇賀の長者伝説からきたもの、という話は以前にも書きましたねー。
古来、浦戸湾の入り口に近いこの界隈、富裕層が暮らしておったんでしょうかね。浦戸も長浜も、中世に遡る古い町なので、その辺のこと発掘調査してみたら面白いかも知れません。
で、長浜は、藩政期になると更に重要な町になったと推測できます。こないだ、吉田東洋の鶴田塾のこと書いたときにも触れたけど、海上交通が盛んだった当時は、高知の城下と御畳瀬、長浜、浦戸、種崎は、気軽に往来するような気分的距離だったと思われます。潮の満ち引きを利用して、船で往来する。
桂浜が月見の名所になったのは、満月の頃は大潮で、潮の満ち引きが大きくて流れが早いので、城下と桂浜の船での往来に適していたからではないか、と、今、思いつきました。そうだ。そうに違いない。浦戸湾内の水上交通を中心にして、当時の人になったつもりで想像すると、そんなことを思いつきました。すごいぞ。
長浜が、藩政期に更に重要になった、という話でした。そう。野中兼山先生により「唐戸の切抜き」工事が行われて、新川川と、この長浜川がつながり、仁淀川水系が、太平洋を経由せずに浦戸湾と繋がったのでした。なので、長浜は、更なる交通の要衝に、なった。
宇賀神社の別名は惣蔵様(そうぞうさま)。ここは御蔵橋。長者伝説。往時、長浜がどんな土地であったのかを想像させてくれる。惣蔵様だけに。なんちゃって。
それはともかく、桂浜が月の名所になったのは、満月の頃合いが高知の城下との往来に便利だったから、という妄想に、今、取り憑かれてます。
それもともかく、今日も蒸し暑い1日が始まります。
頑張って用事を始めよう!