弥生集落の夜明け〔6895〕2022/03/02

2022年3月2日(水)晴れ
春。コロナもなかなか減らんけど、季節は春へ。ああ。飲み会、やりたい・・・
それは置いといて、今朝は、こないだ現地説明会に行っていた若宮ノ東遺跡の北側、電車通りを撮影してみました。この十字の界隈。
電車が東西に走り、舟入川が流れてたりするので、なんとなく南北が分断されてる感があって、電車や舟入川がなかった時代のことが想像しにくいけど、ここに、弥生後期、土佐でも最大級の集落が形成されてたらしいことを、こないだの説明会で知りました。
竪穴式の建造物が、確認されてるだけでも東西490m、南北230mにわたって広がってたという、弥生集落。弥生時代後期になって、ここに大規模集落が形成されていった理由を、今朝は考えてみたのでした。春やしね。
この界隈で弥生集落というと、もちろん田村遺跡が思い浮かびます。田村は、弥生初期から末期までの数百年間、南四国の中心集落でありつづけてきたと思われます。物部川河口の扇状地。自然堤防上の微高地に広がった集落。
まだ灌漑技術が進んでなかった時代、網の目のように水が流れる扇状地が、農地として有利であったことから、その周辺に集落が形成されていったと想像します。
しかし、大きな弱点が。そう。水害に対する脆弱性。一番は、大雨による物部川の増水、氾濫。農地に水が氾濫するのは、まだ仕方ないとして、居住空間まで洪水になってしまうのは、厳しかったと思う。そして、それだけではなくて、田村には南海トラフ地震の津波も上がってきます。それは、集落に壊滅的な被害をもたらした、かも知れません。
弥生も後期になると、人々の灌漑技術も、かなり進歩してきたと思われます。進歩すると、自然の河川流路から離れた場所でも田んぼをつくることが可能になる。そこで、この香長平野でも、更新世段丘の近くとかに農地を切り拓くことが可能になり、あちこちに新しい農地、そして集落が形成されていきました。
と、見てきたように書くけど、全部想像の世界、想像の風景です。春やしね。
で。形成された集落は、古墳時代から律令時代にかけて、地域の中心として栄えていくようになる。
例えば国分。国分寺界隈には、弥生後期になって大きな集落が形成されたこと、わかってます。その弥生集落が母体となって、後の、国衙につながっていったのでした。
ここの弥生集落は、古墳時代を通じて栄え、律令時代になって長岡郡の郡衙となる。そんな、歴史。
そんな頃の風景を想像しながら、昇る朝日を眺める朝。弥生人も見た、香長平野に昇る、朝日。