若宮ノ東遺跡は、おもしろい〔6892〕2022/02/27
2022年2月27日(日)晴れ!
昨日の高知新聞に、南国市、若宮ノ東遺跡の調査で発掘された大型建築物が、租税の穀物を納めた「正倉」だと断定されたとの記事が載ってました。若宮ノ東遺跡というと、このにっこりでも幾度か書いてきた遺跡。2018年6月の現地説明会の内容は、ここに書いてます。その次は、2019年3月の調査報告にもとづくにっこり。
当初は、7世紀の建物かも知れないということと、その規模感から、ひょっとしたら、国分にできる以前の国衙だったのではないか、みたいな説もあったけど、どうやら発掘調査が進むにつれ、そうではなくて、まずは「評衙」。そして「郡衙」となり、長岡郡の中心として機能した場所、ということになってきた、みたい。その調査研究の延長線上に、今回の「正倉」断定がある訳だね。たぶん、そう。
国際情勢の中で、唐にも認められる国家となる為に、様々な制度を導入していったのが飛鳥時代。その集大成のひとつが律令制度で、課税方法や徴税方法が確立され、各地に条里制が施かれて、穀物を保管したり運んだりする方法も、中央集権的に確立していった、8世紀初頭。その後、いろんな制度が整備されていくなかで、今回発掘された「正倉」の建物群も、つくられていったのでありましょう。
地形を無視した直線的な道路がひかれたのも、律令制度の確立に、時期を同じくしますね。その官道、直線道路のありようは、士島田遺跡や高田遺跡の現地説明会で現任することができました。若宮ノ東遺跡は、恐らくは官道の交差点、交通の要衝に置かれた「郡衙」の遺跡。
地盤は更新世段丘。なので、少し小高く、固い地盤。そこに役所を置き、穀物貯蔵施設をつくったのは、理解できます。
今回の発掘では、弥生後期から古墳時代にかけての竪穴式住居跡もみつかってます。水害、自然災害に強い段丘上やけど、南へすぐの場所から、田んぼに適した物部川の氾濫平野が広がります。そんな土地なので、太古の昔から人々が暮らしやすい土地であったことは、この土地条件図からも、わかる気がします。しませんか?
なんと、ここの弥生後期の竪穴式建物群は、東西490m、南北230mに広がっている、県下でも最大規模のものなんだって。
あと、今回、中世の土坑墓とか土器とかもたくさん出土していて、その頃にも有力者が住み、栄えていたことがわかってます。つまり、弥生の昔から、ずうっと栄えてきた場所なのでした。この更新世段丘の先っぽという立地が、繁栄を支えてきたのかも知れませんねー。
さて。
この東から、香長条里に沿って、真北よりも少し東に傾いた直線を北上すると、国分寺。
8世紀初頭の、中央集権権力の強さを感じます。
国衙。直線官道。官道の角度に沿った、広大な条里。そして正倉。律令制度を浸透させていくための巨大インフラ整備事業が、全国各地で実践されていたことが、わかる。日本がひとつの国家として纏まっていく、その過程を、この遺跡が教えてくれます。