鎌島城は、ブリコに。〔6868〕2022/02/03
2022年2月3日(木)薄曇り
節分かー。
つまり明日は立春ということで、もう、春。冬来りなば、春遠からじ。コロナの冬も、そろそろ終焉に向かって欲しいね。
こないだ、中世の城のこと、書きました。南北朝期から戦国にかけて、土佐でも各所で有力者、豪族が跋扈して、いろんな場所に砦、城を築いた、という話。もちろん戦国末期に至るまで、普通に「お城」でイメージするような石垣とか天守とかは存在せず、自然地形に土盛を活用してつくられた「砦」のようなもの。周囲が見張らせる、尾根の先っぽとか台地の先端、小山などが、そんな場所として選ばれていたようです。
小山でも、そのてっぺんには構築物は何もないか、あっても小さな見張り台みたいなもの。
豪族は、てっぺんから少し下がった場所で、生活しておりました。場所が狭ければ土盛して。
平野の真ん中の小山。これは、一見すると、攻め込まれたらひとたまりもない、みたいに見えます。が、よくよく立地を工夫すれば、かなり防御力の高い本拠地ともなり得た、という話を中心に、今朝は妄想してみよう。
ここは、南国バイパス。介良から、高須方向を撮影しました。正面にホームセンター「ブリコ」の灯り。曇り空の夜明け前、田んぼの中に浮かび上がっています。以前にも書いたけど、あそこには「鎌嶋」という小山がありました。つい、こないだまで。1960年代の写真にははっきり写ってます。1970年代でも、まだ、なんとなくわかる「鎌嶋」。「鎌嶋」という名前は、この今昔マップで確認できます。
その名称は、その小山が鎌のような形をしており、そしてかつては島であったことを示しているのでありましょう。そう。古代、ここは、広い広い古浦戸湾が広がる浅海でした。
徐々に土砂の堆積が進み、浅い海が干潟となり、湿地帯となってゆく。たぶん、中世は、そんな風景だったと思います。
中世、あのブリコのところに、鎌島城という城がありました。その名で呼ばれていたのかどうかは知らんけど、その小山を本拠のひとつにした豪族が居た、ということ。
平野の真ん中の小山。なぜ、そんな場所を本拠としたのか。
ここで、話は埼玉県の「忍城」に飛びます。「おしじょう」。戦国期、成田氏の居城として、幾度もも城攻めに耐えた難攻不落の城、忍城。衛星写真で見ても、難攻不落の城には見えません。しかし、そこは、利根川と荒川に挟まれた湿地帯。沼地に島が点在するような場所。で、敢えて埋め立てをせず、沼に浮かぶ島々に曲輪を築き、それを端で繋いだといいます。つまり、沼を、防御の中心に据えた訳だ。
中世の武将は、現代人よりも遥かに、地形に精通していたと思います。地形を最大限に利用する術を知っていた。沼地につくられた忍城は難攻不落となり、幾多の城攻めを耐え抜いたのでした。
で、鎌嶋。鎌島城。
想像するに(妄想するに)、こういう地形分類の土地で、平野の真ん中の小山に砦を築いた豪族は、ここがかつて海であり、湿地帯であることを最大限に活用することを考えたのではないか。
重要なのは、状況を精密に正確に分析し、その状況を最大限に活用する知恵。ITだAIだ、と世の中便利になり過ぎて、自分で見て考えて判断する知恵を忘れたらいかんねー。と自戒を込める、節分の朝。
明日からは、春だ。