コロナで文化を考える〔6865〕2022/01/31
2022年1月31日(月)晴れ!
1月も今日でおしまい。明日から2月。ああ。なんということ。うっかりしている間に、1月が終わってしまいます。光のように、時が過ぎゆく。
アッと言う間に時は過ぎゆく。アッと言う間と言えば、コロナが流行り始めてもう2年。2020年2月、龍馬マラソンを走ったのが、ギリギリのタイミングやったこと、覚えてます。だから、日本で流行り始めて丁度、2年。アッと言う間。アッと言う間やけど、もう、長い長い間コロナやってるような気もします。コロナ前の記憶が、はるか昔のことみたい。矛盾するみたいやけど、この感覚、わかりますよね。
コロナ前のこと、覚えてます?
毎晩のように会合と宴会があり、街を歩けば知った人に出会い、連れこって夜の街を徘徊する。東京や大阪への出張も多くて、出張したら、またそこで飲んだり食べたり。
高知の宴会では盃が文字通り飛び交い、エンドレスにヨウダイを言いながら飲みこつれる。酪農家さんとの飲み会は、お昼から葉牡丹。葉牡丹で燗酒に酔いたくり、勢いで二次会はひろめ市場。ひろめでまたまた酔うたんぼになり、飽きてきた頃合いに、またまた葉牡丹へ戻って3次会。
などという桃源郷のような高知は、いったいどこへ行ってしまったんだろう。もう、あの幸せな時代は戻って来ないんだろうか。戻らん、という人も居るし、戻る、という人も居るけど、僕は、戻ると思ってます。だって、半世紀身体に染み付いた動作は、そうそう忘れるもんではない。また、いつか、あの盃が飛び交う風景が戻ってくるんだろうな、と、なんとなく感じています。
上の文章読んでみても、飲むことに関わる土佐弁って、バリエーションが実に豊富だ。それだけ、文化として深く深く根付いておる訳で、一朝一夕で変わってしまってたまるか。と、思っている土佐人は、いったいどれだけ居るんでしょうかね。
あと、上に「盃が飛び交う」と書いたのは、比喩でも強調でもなくて、文字通り盃が飛んでいたことを表現しています。いつも、でもないし、みんな、でもないけど、間違いなく展開されてた、盃が空飛ぶ風景。わからない方に解説しよう。土佐での「返杯」はわかるよね。そこから説明するのは大変なので、みんな知ってる前提で進めます。返杯では、自分の盃を相手に渡し、そしてお酒を注いで飲んでもらい、またその盃を返してもらって酒を注いでもらう訳やけど、盃を差したい相手が、少し離れた場所に居る場合は、盃を、その相手に投げて渡してもかまんというルールになってます。ここで盃が、空を飛ぶ。受け取った人は、隣の人とかに酒を注いでもらい、飲み干して、投げてきた人に、投げ返す。それを受け取った人は、同じく隣の人とかに酒を注いでもらって、飲む。これがひとセット。
座が乱れてくると、いちいち立ち上がって差しに行くのも面倒で、こんな簡易作法で返杯をやったりしておった、土佐の宴会。ああ、懐かしい。もう、2年以上やっていない、土佐の宴会。
明日から2月。コロナが終息しても、無駄がバレた出張や会合は、戻らないと思います。でも、土佐の宴会は「文化」。ドイツのメルケルさんが、文化芸術は人類が生きて行く為に必要不可欠なものである、と言うたのは、正しい。だから、土佐の文化も生存の為に不可欠なものだとすれば、コロナ終息後に真っ先に復活する。のかも、知れません。知らんけど。
そんなことを妄想しながら、明日から2月。土佐の宴会はともかく、仕事をせんといけません。
写真は、昨日実家から持ってきた、40年前の台湾地図と、写真。人生アッと言う間やね。その話は長くなるのでまた今度。
さあ。今週も張り切って、仕事を始めよう!