深淵城は、どこに〔6864〕2022/01/30
2022年1月30日(日)曇り
今朝は、会社の近所、野市町深淵の話。弊社から言うと、物部川の対岸を北上した辺りが、深淵。物部川左岸の段丘にある古い古い集落。古墳が点在することから、田村の弥生集落の系譜かも知れんね。平安時代には「布加布知」とか「布加不知」とかの文字で記されている土地で、まあ、「ふかぶち」と呼ばれてきたんでありましょう。物部川の、深い淵があったんでしょうかね。知らんけど。
で、鎌倉時代から南北朝時代、香宗我部一族の祖、中原氏が深淵郷の地頭職をやってたという記録があって、香宗我部氏の所領だったと思われる、深淵郷。南北朝の合戦の時代、深淵には香宗我部支配下の「深淵城」があり、南朝方に属して、建武三年(1336年)に北朝方の堅田経貞(佐伯経貞)と戦ったという記録も、あります。「押寄深淵城、懸先陣焼払城郭之処」という佐伯経貞軍忠状の文章から、その城は焼き払われたんでしょうねー。
では、その深淵城はどこにあったのか。
ここで、先日の「考古資料から読み解く長宗我部氏」を思い出そう。そう。土佐の城には、南北朝の頃から少しづつその役割を変化させながら発展していった、という歴史があります。南北朝期の城としては、平野に突き出した尾根の先っぽの木塚城が紹介されてました。
同じ時期の深淵城は、いかに。その講義で配布された資料の地図にも「深淵城」があります。でも、大きな地図なので、正確な場所は、わからない。
そこで、まずは地形を見てみました。深淵界隈を地理院地図で見ると、こう。で、それを陰影起伏図で見たら、こう。僕が中世の領主で、周囲を見晴らす砦の役割を果たす城を築くとしたら。候補としては、ここか、ここでしょう。もう、この2ヶ所以外は考えられない。地形だけから見たらね。
ここは、段丘の上の、更に少し小高くなった場所。なんで小高くなってるのかはわからんけど、三宝山層群の露出なのかも知れんね。そうだとするなら、古墳時代も平安時代も、そして南北朝の時代にも、周囲から突出した小高い山であった訳で、そこの城を築くというのは、中世領主としては、アリでしょう。
その場所を、今朝、撮影してきました。今もこんな感じの森として残ってて、古いお墓がいぱい。なんか、いい感じ。僕が領主やったら、ここやねー。この樹々がない風景を想像してみよう。
ここに砦を築き、周囲を睥睨する。そんな中世の、豪族。
界隈のホノギを調べてみんといかんね。もし、ここが深淵城なら、今から700年近く前に、北朝方の攻撃で炎上したのかも知れません。発掘してみたら、面白いと思いました。
そうそう。以前、「深淵の半四」のお墓をご紹介したことあるけど、その場所は、この写真からすぐ南。公民館がある所。昔から、この界隈が深淵の中心だったのだ。
昨日、この数十年で変わった野市の風景のこと、書いたけど、ここには、たぶん、700年前の地形が残っているのでした。700年前、ここにあったかも知れない中世の城。風景は変わるけど、変わらない地形。ロマンやねー。