奥宮藤九郎正明〔6852〕2022/01/18
2022年1月18日(火)晴れ
阪神淡路大震災から昨日で27年。そして、トンガの火山噴火と日本列島を襲った「津波みたいなもの」。地球ってのは、まだまだわかってないことだらけであることを思い知らされる、今日この頃。
ところで、幾度かこのにっこりにも書いてきたけど、1707年に発生して、日本列島を、そして土佐沿岸を襲った宝永南海地震の大津波について、当時の土佐藩の能吏、奥宮正明さんが、その被害の報告を「谷陵記」というものに纏めておられます。土佐の、各地の被害状況がよく判る、一級資料。その情報の貴重さは、図り知れません。
ここは筆山。この、ヘアピンカーブの中の緑地になった場所で撮影しました。ここは、いろいろと思い出深い場所。
ヘアピンカーブに囲まれた緑地は、まだ弊社の本社が与力町にあって、市内の物流拠点にもなっていた頃、よくお花見をした場所。会社からドラム缶とかを運んできて、焼き肉とかで楽しんだことでした。使わなくなったコーヒー抽出機を改造した道具で、マグロの頭をそのまま焼いたりしたねー。今はたぶん、火を使うのは禁止やろうけど、昔は大らかなもんやったねー。
右手上に見えるのは、元ユースホステルで、今は「筆山文化会館」とかいう名前で、高知市が運営する貸しスタジオとか文化教室の会場に利用されてる施設。バンドをやってた頃は、毎週ここでの練習に来てましたねー。今は昔。懐かしい。夜になると落武者姿の霊が見えるとかなんとか、噂があったけど、僕は見たこと、ありません。
そしてこの巨木の向こう側。今日、行ってみたけど、かなり荒れ果ててました。よく見ると、いくつかの、小さな土饅頭のようなもの。小石が並んでいて、お墓であること、わかります。その横に、2基の古い墓石。その一つには「奥宮藤九郎正明 奥宮藤九郎妻 墓」と刻まれているのが、どうにかこうにか読み取れます。そう。まさしく、「谷陵記」を僕らに残してくれた奥宮正明さんの墓所なのであります。
筆山は、藩政期からの里山にして墓山。夥しい墓があって、その多くは無縁墓になって荒れ果てています。お墓ってなんだろう、と考えさせられる風景ではありますね。
奥宮正明さんという人物は、土佐史を齧ったら、必ず知っておかなくてはならない人物やけどね。
時の流れは、いろんなことを風化させてゆく。
筆山の、夥しい放置された墓石を見るにつけ、お墓などというものは、儚い儚いものだと思わされます。しかし、奥宮正明さんの墓所は自然に埋もれてつつあっても、「谷陵記」は重要性を増してくる。それでいいのかも知れません。ここを通る度、あの頃のお花見や、バンド練習とともに、奥宮正明さんのことを思い出します。
墓所や思い出は風化しても、災害の記憶は、風化させてはなりません。