弘化台、厳島、玄夫島、黒磯〔6814〕2021/12/11
2021年12月11日(土)晴れ!
昨日は、弘化台の駐車場に車を停めて、歩いて帰ってみました。なので今朝は、稲荷町、若松町を歩いて弘化台へ。弘化台の、ここで撮影してみたのであります。土曜なのでいつもより少し遅い、午前5時過ぎ。
ちょいとわかりにくいかも知れんけど、正面に丸山台が見えてます。その向こうにトップワン四国と旭ロイヤルホテル。鏡川河口の美しい風景。
で。以前にも一度書いたことあるけど、弘化台の話。
現在、弘化台というと、卸売市場のある埋立地のことを指します。卸売市場と弘化台は、ほぼ同義語に近い使われ方。弘化台という町名は、昭和49年から存在します。埋立ができて九反田から市場が移転してきたのが昭和42年。昭和49年までは、高知市中之島字弘化台だったそうです。この11月現在人口は、54世帯99人。市場とか会社ばかりに見えるけど、ちゃんと、居住人口もあるんですね。
だから、市内で飲んでタクシーに乗り、「弘化台にやって」と言うて眠ってしまった客が、気がついたら工科大まで乗せられておった、という悲劇が起きたりする訳だ。
で。以前にも一度書いたけど、この埋立の弘化台ができる以前の「弘化台」の場所は、この目の前の海にあったのでした。今昔マップで見ると、よくわかります。ご承知の通り、弘化台は、弘化年間に砲台が築かれたので弘化台と呼ばれるようになったと言います。もちろん、そこには小島があった訳で、その小島を砲台に整備したのでありましょう。
明治初期の、河田小龍さんが描いた絵図を見ると、この目の前に厳島と弘化台がくっついて存在し、その向こうに丸山台。たぶん、弁天様を祀る厳島神社がある小島があって、その小島にくっつけて砲台をこさえたんではないかと想像します。
今の埋立地を「弘化台」と名付けたのが誰なのかは、知りません。埋め立てた場所に「弘化台」があったと思ってる方が多いでしょうが(僕もそう思ってた)、実際は、埋立地は弘化台の上ではありません。
弘化台の東には、以前も紹介した、ミロクさんの捕鯨砲試射台が、あります。それは、河田小龍さんの絵図には「玄夫島、俗に黒磯」と書かれている場所。その試射台は、明治初期の絵図にも正方形で描かれてるので、弘化台と同じように江戸時代に砲台として造られたものだと思われますね。その砲台は、なんと呼ばれておったんだろう。
どっちにしても、現在の弘化台埋立地は、江戸時代の弘化台、厳島、黒磯、玄夫島には隣接してるけど、真上にできている訳では、ありません。
だから、誰が「弘化台」という名前を埋立地に付けたのか知らんけど、ひょっとしたら、全然違う名前になってた可能性もある訳で、例えば「市場島」とかだったらわかりやすかったのに、などと妄想したりするのであります。そうだったら、タクシー降りたら工科大、みたいな悲劇は生まれなかったのでありましょう。
ひとつ言えるのは、この写真の、目の前にあった厳島、弘化台が、今はない、ということ。つまり、その島や砲台は撤去掘削され、その撤去した土砂は、間違いなく現在の弘化台の埋立に使われたであろう、ということで、そういう意味では、現在の弘化台は、昔の弘化台の歴史を引き継いでいるとも言える訳で、どうでもいいけど今朝も早くから弘化台では、多くの人たちが活気をもって働いているのでした。さあ。僕も仕事始めなくっちゃ。