下の橋問題を考える〔6792〕2021/11/19
2021年11月19日(金)晴れ!
秋深し。
ここは中ノ橋。高知市中心部を南北に貫く中ノ橋通りが江ノ口川を渡るところに架かる、その名も「中ノ橋」。昭和33年架橋と書いてるので、僕は、生まれた時からこの橋を渡ってきたことになります。中高の通学でも渡ったりしてたので、もう、数え切れない回数渡ってきた、橋。
子供の頃は、江ノ口川は西日本一汚いと言われてて、鼻をつまんで渡ってた記憶があります。今はすっかりキレイになった、江ノ口川。橋のたたずまいは、昔と全然変わってません。
中学生の頃だったでしょうか。この北詰に「視力回復センター」というのができて、同級生が通ったりしてましたねー。学校ではちょっとしたブームになってました。あれって、どうなったんだろう。本当に近視が簡単に治るんだったら、今もここに視力回復センターが存在してるみたいな気もするけどね。でも、調べてみると、今もあるみたいやね、視力回復センター。
僕は中一で眼鏡少年になり、それ以来半世紀、眼鏡かけて過ごしてきました。一度、コンタクトに挑戦したことがあるけど、痛くて痛くてダメでした。無理。まあ、眼鏡は身体の一部になってて全然不便も感じんので、今となってはコンタクトにする気もないですね。老眼が入ってくると、逆に眼鏡であることが便利になってきたり、します。つまり、どんなに小さい文字でも、眼鏡を外しさえすれば、読めるから。これ、近視の眼鏡かけたことない人にはわからんでしょうね。とても便利な眼鏡生活。
で、中ノ橋。
気にしてない人が多いと思いますが、中ノ橋があるからには、上ノ橋、下ノ橋があったと思われます。現在、上ノ橋はちゃんと架かってます。高知城の東側の、南北の道路が江ノ口川を渡る橋。県立大と丸の内高校の間の道ですな。ストリートビューでみると、こう。この中ノ橋よりも新しくて立派な橋やけど、知名度は中ノ橋に比べるべくも、ない。
それは、中ノ橋を渡る中ノ橋通りが、市内中心部と北部をつなぐ幹線道路でありつづけてきており、その名も中ノ橋通りと呼ばれてきたことに起因すると思われます。
ちなみに上ノ橋の通りは、南へ行くと追手筋に突き当たり、北へ行けば駅前の通りに突き当たる短い道路なので、上ノ橋通りと呼ばれることはなかったのでしょう。知らんけど。
で、問題は「下ノ橋」。昭和初期の地図、明治期の地図を見ても、下ノ橋は、ない。そこで藩政期の絵図を見てみました。高知市史の「描かれた高知市」で。江戸時代前期の絵図には、現在の中ノ橋、上ノ橋、そして廿代橋のところに橋が見えるけど、橋の名前は書かれていません。江戸時代中期以降に見える橋は、上ノ橋、中ノ橋、廿代橋、そして山田橋。当時、城下中心部で江ノ口橋に架かっていたのは、これらの橋でした。下ノ橋が、ない。
ここで、江戸時代初期の絵図には橋の名前が描かれてないのを思い出そう。その頃、橋は橋であって、特に正式名称はなかったのだと思います。しかし区別しないと不便なので、城下の人々は、上ノ橋、中ノ橋、下ノ橋などと呼び習わしていたのかも知れません。で、下ノ橋と呼ばれていた橋は、廿代橋と呼ばれるようになったのか、撤去されてしまったのか、山田橋になったのか。僕は浅学にして、未だ、知らない。今度、調べちょきますね。下ノ橋問題。
ともあれ、架橋されて60年以上経過するこの中ノ橋は、今も、交通量の多い中ノ橋通りの橋として、立派に役目を果たしております。すごい。