松山電気鉄道〔6788〕2021/11/15
2021年11月15日(月)晴れ!
今朝は、松山。愛媛県松山市。仕事で、早朝から国道33号線を走ってやってきました。
ここは、伊予鉄の古町駅のすぐ西側。この辺り。この川は宮前川という川で、その川に架かる小さな橋を撮影してきました。向こうに、現在の伊予鉄の架線が見えてます。伊予鉄高浜線ね。
で、この小さな橋は、あの伊予鉄道と壮絶な競争を繰り広げた松山電気鉄道の痕跡、とのことなんですね。初めて知りました。
松山の鉄道、と言えば伊予鉄道で、「坊ちゃん」でもお馴染み。国鉄よりも早く、明治21年に、三津浜港と松山市街を結ぶ鉄道として営業が始まった、伊予鉄道。そう。そもそも、松山の外港である三津の港と市街地を結ぶためにできた鉄道。それまでは、想像しにくいけど、この宮前川などの舟運が中心だったそうでございます。
で。その明治21年に開通した伊予鉄やけども、明治25年には三津から高浜まで延伸しました。瀬戸内海航路の港が高浜港になったから、ですね。それで慌てたのが三津浜の人々。で、地元有志が計画し、紆余曲折の末に設立されたのが、松山電気鉄道。通称「松電」。土佐電気鉄道が「土電」だったのと、似てますな。
そして、三津浜に近接する住吉から市街地を通って道後までを、なんと標準軌で開通させたのが、明治44年。
伊予鉄と松電は、同じようなルートを並行して走っていたのでした。すごいね、まったく。そして熾烈な競争が繰り広げられ、価格競争や客引きで双方疲弊。結局、経営の苦しかった松電を伊予鉄が吸収する形で収束したのが、大正10年のこと。
それからも色んなルートがつくられたり廃止になったりして、現在の姿になっているのでした。
この場所に、煉瓦積みの橋脚を持つ橋が架けられ、電車が走っていたのはいつ頃までなんだろう。松山の地理に疎い僕は、このウィキを読んでも、すぐにはピンとこないのでした。
僕にわかるのは、この煉瓦積みの橋脚。そう。イギリス積みやね。明治末期のイギリス積み。その当時の典型的な積み方で、松山電気鉄道の橋が架けられました。。
こんなにも近くを、同じようなルートの別会社の線路が走っている風景は、なかなか興味深いものだったでしょうな。坊ちゃんもビックリ。いや、坊ちゃんが発表されたのは明治39年だから、坊ちゃんは松電、見てないね。どうでもいいですか?
さて。そんな松山で、今から仕事です。