中の島、棒堤、貴重なお話〔6721〕2021/09/09
2021年9月9日(木)晴れ
ストリートビューでいろんなところに行ったつもりになってたら、いつの間にか季節は移ろい、未明の東の空には冬の大三角形。夜が明けるのも遅くなりました。
今年も秋がやってきて、冬が訪れようとしてますが、いつになったらコロナも収束するんでしょうかね。コロナ退散コロナ退散。
ここは鏡川大橋北詰。堀川の上から、東の空を撮影。冬の星座が煌めく東の空。オリオン座。おおいぬ座。こいぬ座。シリウスがひときわ明るい東の空。その下は、堀川の水門。この大きな水門が、大地震発生時などには閉じられることになっています。水門の右手に、五台山の鉄塔。この右側は中の島。かつては棒堤と呼ばれた、鏡川と堀川に挟まれた細長い洲。
今から6年ほど前、いの町在住のF子様という方から葉書を頂戴しました。この写真の場所に渡し舟があって、中の島にあった造船所へ通う工員さんが、二葉町から中の島へと渡し舟で渡っていた風景をご紹介して頂きました。ご自身も、その渡し舟で中の島へ渡って鏡川で泳いだりして遊んだ、という内容の葉書でした。
そのF子様から、先月、またお手紙を頂戴しました。6年前に83歳でしたので、たぶん89歳。90歳かも知れませんが、達筆で内容の濃いお手紙に、感動しました。ありがとうございます。
その封書には、この日僕が書いた「柴巻から小浜へつながる道」を、夜、父の背中におんぶしてもらって歩いた話が書かれておりました。昭和20年7月4日の高知大空襲で焼け出され、鏡の小浜に避難されていた時の話。その後、小浜から第一高女まで3年間歩いて通った話なども書かれており、昔の方の脚力に改めて感心したり反省したり。
そしてまた、この中の島の「棒堤」のことも書かれてました。「先の方にガラス工場があり、割れたビンがたくさん捨てられていたり、レンタンを作る工場があったのを見ながら泳ぎに行ったことでした。」
80年前、そんな風景が、この向こうにあったのでした。
貴重なお話、ありがとうございます。棒堤は、住宅街とは堀川によって隔てられており、水運の便も良いことから、工業地帯となっていたのでした。明治から昭和にかけて。
先っぽの方の地面を掘ってみたら、ひょっとしたら割れたビンとかが出てくるかも知れませんねー。どんなビンだろう。当時のことなので、エンボスのある、面白いビンかも知れません。発掘してみたら面白いのにね。それも今では立派な埋蔵文化財。こんなものが出てくるかも、知れません。
鏡川大橋が完成して中の島と二葉町が橋でつながり、中の島の風景もすっかり変わりました。先っぽのガソリン基地だけが、棒堤が工業地帯であった名残を、今に留めています。
ああ。発掘してみたい。