中の島のガラス工場〔6722〕2021/09/10
2021年9月10日(金)晴れ!
良いお天気。気持ちのいい朝になりました。来週から禁酒令は解けるみたいやけど、酒類提供は夜7時までで、時短要請は夜8時まで、ということ、らしい。まだまだ飲食店の受難は続く。
昨日、80年前の中の島の風景のことなど、書きました。棒堤の先の方にガラス工場があった話とか。すると、鏡川対岸の新田で営々と農業をされておられるKさん、このにっこりにも幾度かご登場願っているKさんから、そのガラス工場は記憶にあるとのメッセージを頂戴しました。新田まで、ガラスを廃棄する音が聞こえていたそう。製材所もあって、その製材所へカブトやクワガタを獲りに行きよったとか。たぶん、昭和30年代後半の話。
続いて、九反田で生まれ育った元パイロットのYさんから、そのガラス工場は昭和30年代まで存在してて、漁業に使う球形のガラスの浮きなどを作っていた、というメッセージを頂戴しました。で、材木を井形に積んだ乾燥場もあったそう。
いやー、みなさん貴重な情報ありがとうございます。ちょっと書いただけでこの情報提供。すごいですね。何より、このにっこりひまわりを毎日読んでくれてる方がいらっしゃるのが、嬉しい。いや、ホント、ありがとうございます。
お陰様で、中の島の昭和30年代までの風景が見えてきた気がします。
当時の航空写真が、これ。この十字の辺りにガラス工場があったんでしょうかね。今朝、若松町の防波堤の上からその界隈を撮影してみたのが、この写真。今は燃料屋さんの事務所やタンクなどが並んでますが、この界隈がガラス工場だったのか。そしてこの正面くらいで、材木を乾燥させていたのか。そんな風景を想像しながら、未明の中の島を眺めてみました。
ガラス工場の主要製品は、Yさんによりますれば「漁業に使う球形のガラスの浮き」だったとのこと。なるほど。
それで思い出すのがアイリスオーヤマ。かの、アイリスオーヤマを創業された大山健太郎氏が、日経新聞の「私の履歴書」に書いてた話。お父さんのご逝去で19歳にして会社を経営しなくてはならなくなった大山健太郎氏。その仕事は、プラスチック製の薬用瓶などをブロー成形する下請け工場。下請けからの脱却を目指した健太郎氏が必死になって開発したのが、それまでガラス製だった養殖用の「浮き」をプラスチック製にしたもの。軽くて割れにくい、プラスチック製の養殖用「浮き」は大ヒットし、アイリスオーヤマの基礎を築いたという話は印象的で、覚えてました。
その商品を世に出したのが、昭和30年代後半。
中の島にガラスの「浮き」を製造する工場があったのが、昭和30年代後半まで。
つまり、大山健太郎氏のアイディアが、中の島からガラス工場が無くなることと繋がっていたのかも知れません。世の中、どんどんと変わってゆく。
遅かれ早かれ、中の島は工場地帯ではなくなったでしょうけどね。市街地が拡大し、市場も弘化台へ移転して、九反田から中の島にかけては、街から近い閑静で便利な住宅街へと変貌していったから。今は、マンションが立ち並ぶ中の島。
世の中、どんどんと変わってゆく。