高知県工業試験場〔6635〕2021/06/15
2021年6月15日(火)曇り
桟橋通2丁目バス停。そのバス停の横にひっそりと、こんな石の看板が隠れているの、ご存知でしょうか。高知工業高校のテニスコートの東側。
これには、「高知県工業試験場」と書かれています。
そう。ここには嘗て、高知工業試験場がありました。僕が社会人になってすぐ、ここにあった工業試験場へ仕事で来たこと、あります。地場産センターや工業技術センターが布師田にできたのは、1984年の黒潮博の後なので、まあ、その頃。工業技術センターとなって布師田に移転するまで、ここが高知県工業試験場だったこと覚えてる方も、少ないと思います。このテニスコートの辺りにありましたよね。
ここは高知工業高校。電車通りを挟んで向かいにあるのは県民体育館ですが、そこは以前、高知商業高校でした。
弊社にも、桟橋にあった高知商業出身の社員さん、結構おりました。が今は昔。桟橋の商業出身者は、もう居なくなりました。弊社創業者の吉澤八洲夫は高知商業学校卒業ですが、その商業学校は桟橋ではなくて帯屋町にありました。商業学校が、当時帯田と呼ばれたこの場所に移転してきたのは1929年。昭和4年。その頃は、高知工業高校の前身である高知工業学校は、北与力町にありました。もう、北与力町という町名もないのでわかりにくいけど、要は女子大のところ。違いました。今は県立大永国寺キャンパスのところ。そこに、高知工業学校はありました。西隣が第一高女ね。
工業学校がここに移転してきたのは、昭和17年。そして戦後になり、商業高校と工業高校が向かい合う状態がしばらく続いたけど、1970年(昭和45年)に、商業高校は現在の場所に移転。
ややこしいですか?
北与力町の工業学校は、今は県立大学。第一高等女学校は丸の内高校。
桟橋の商業高校を知る人も減り、ここに工業試験場があったことを知る人は尚更少ない。その工業試験場へ足を踏み入れたことのある僕は、今となっては貴重な存在かも知れません。
時は流れ、そこに何があったのか、人々の記憶から消えてゆく。
でもこうやって、恐らくはここに工業試験場があったときの、玄関かどっかにあったと思われるこの石を残してくれているのは、ちょっと嬉しい。
で、ここが工業試験場だった頃、野市の、現在ポリテクカレッジになっている場所は農業試験場でした。農業技術センターの前身。同級生のS君は、新卒で県庁へ農業の技術職で入って、その農業試験場で品種改良やったりテニスしたりしてたのを思い出しました。ポリテクに農業試験場の痕跡が残っているのかどうか、今度、調べに行ってみよう。