物部川、河口、街道と橋の歴史〔6578〕2021/04/19
2021年4月19日(月)良いお天気
寒いけど、良いお天気。身体も気分も引き締まる、朝。
今朝は3時半に会社へ。ひと仕事済ませ、お日様が昇り始めてから、物部川河口近くへ行って撮影してきました。旧街道の痕跡。
実は以前にも一度、紹介したこと、あります。今から5年前の、秋。そこでも書いたように、現在の物部川河口近くに、以前、街道が通り、橋が架かっておりました。今は物部川大橋という大きな橋が、空港の滑走路を見晴るかすようにように架かってます。航空写真では、こう。その少し北側に、その橋はありました。1970年代の航空写真にも、見えます。その写真には、工事中の物部川大橋の橋脚が写ってます。物部川大橋が完成してから、取り壊されたと思われる、橋。
その橋が架けられたのは、いつなのか。
以前のにっこりでも想像してるけど、あれはたぶん、間違い。信用してはいけません。今朝、もう少しまじめに考えてきました。最新のアプリを使ってね。
このアプリは、現在のGoogleマップとかに、地理院地図の古い航空写真、そして古地図を重ね合わせて見られるようにした優れもの。Jr.1号に教えてもらいました。
手に持ってるiPhoneの画面をご覧ください。立っている現在地が、青丸で示されてます。表示されてる地図は、明治時代、1900年頃の地図。現在の地図でいうと、この十字の場所ね。古地図散歩見ると、ここに、高知県の中部と南部を結ぶ街道の一つがあったとこ、わかるよね。街道沿いには、幾度もご紹介してきた「命山」も見えます。で、物部川をどうやって渡ってるのか。よく見ると、川には舟の絵が。そう。明治の頃までは、ここには渡し船があったのでした。橋ではなく。
その後の、昭和8年頃の地図が、これ。お手数やけど、同じ場所を拡大してみてくださいな。明治の頃とはちょっと違う。ルートが右下へずれてて、河川敷の東端を流れる本流に、橋。短い橋。昭和初期は、それまでの街道ルートから少し南へ道が振れ、河川敷から河川敷へ、短い橋が架けられていたことが、この地図から推測できます。
ところが、昭和30年代の航空写真を見ると、こう。かつて、渡し船が通ってたルート、つまり昔からの街道ルートに、まっすぐ橋が架かってるではないか。車も渡れる橋が。旧街道ルートにね。
ついてきてますか?
えーと、つまり。
旧街道は、「命山」の北からまっすぐに物部川を渡り、水の部分は渡し船。
その後、大八車とかが渡る必要が生じ、河川敷を斜めに横切り、短い橋で水を渡る短縮ルートができた。
その後、自動車とかも渡れる長い橋が、旧街道と同じルートに直線で架けられた。
そして物部川大橋が架橋され、その旧橋も役割を終え、取り壊された。
以上。
どうでもいいですかね。どうでもいいような、話。
でも。あそこに「命山」があったことや、ここに橋が架かってたこと、増してや渡し船があったことを知る人は、もう、ほとんど居なくなった今、そういう歴史を記録と記憶に留めておくことは、大切なんだと思い、月曜の朝っぱらからこんなこと、書いてます。
まあ、それはそれとして、仕事仕事!