大川村の新入生〔6568〕2021/04/09
2021年4月9日(金)晴れ!
一日遅れになってしまいました。昨日の朝刊。いや、夕刊が無くなった今も、朝刊と呼んで良いのかどうかは知らんけど、 僕にとっては近年稀に見る、明るい記事でした。
人口400人を切った大川村、村議会議員になり手が少なすぎて、議会は廃止して村民集会が検討された、あの大川村で、この春、小学生5人、中学7人の新入生が入った、というニュース。高知新聞一面を飾るにふさわしい記事。昨日、触れることできんかったので、今朝、書きます。それにしても良い写真ですね、これ。
大川村については、幾度も幾度も、このにっこりでは触れてきました。繰り返しになるけど、今一度、大川村との邂逅の話。
高校生の時のこと。同級生のM君と二人で、土佐町田井までバスで出掛け、田井の富士見旅館に泊まりました。で、早朝旅館を出たんですが、旅館の女将が、特別に持たせてくれたお弁当を、今も覚えてます。
そして大川村方面へ歩き始め、ヒッチハイク。おじさんが二人乗った乗用車が停まり、僕ら二人を乗せてくれました。目的地は、大川村の「白滝鉱山の廃坑」。銅山として栄えた白滝鉱山も、僕らが行く数年前に廃坑になり、その後、集落で火災は発生してゴーストタウンになっていた、白滝。
僕らお気楽高校生は、そのゴーストタウンを見てみたくて、出掛けたのでした。
そのゴーストタウンはまさにゴーストタウンで、銭湯や、チューリップが開いたままのパチンコ屋さんが、集落の繁栄を偲ばせてくれました。郵便局の部屋には受験参考書が散らばり、平凡パンチもそのまんま。
鉱山の集会所の黒板には、最後の日の記録でしょうか、たくさんの数字が白墨で書き込まれたまんまで、時間が止まってました。
あれから数年間はあのままやったけど、いつしか取り壊されてしまった、白滝廃坑の痕跡。あのままにしといたら、それはそれで観光資源になったと思うけど、あの頃はそんなこと考える余裕もなかったんでしょうね。人口、激減してたから。
高知新聞で「500人の村がゆく」が連載されたのは2007年のこと。今から14年前。高知新聞の若い記者さんが大川村に住み込み、その生活をレポートした秀逸な連載だった。
で、「大川村のほとりでー400人の村の軌跡」という連載が掲載されたのが2019年。12年で、100人減。そのままの勢いでどんどん減っていくのか、と諦観してたら、なんとかその界隈で下げ止まっています。移住者が増えたから。そして、この明るい記事へ。
調べてみました。
16村が合併して大川村が成立したのが明治22年。その当時の人口が1749人。
昭和7年の人口が3499人。
昭和40年の人口が3212人。
昭和45年の人口が1900人。
昭和47年、白滝鉱山閉山。
昭和50年の人口が933人。
昭和53年、早明浦ダム竣工。
2007年、500人。
2019年、400人。
2021年4月、小学校5人、中学校7人の新入生。
あの、40年以上前に僕らをヒッチハイクさせてくれた車を運転してたのは、当時の村長さんでした。
16年前、Jr.1号2号に、渇水の早明浦ダムで色々をお話を聞かせてくれたのも、その当時の村長さんでした。
この記事みたら、喜ぶでしょうねー。
これからの日本を、大川村が背負っている。