農地と津波と集落と人間〔6559〕2021/03/31
2021年3月31日(水)晴れ!
3月も今日まで。明日から4月。そんな季節になりました。ああ。速すぎる。
高知ではだいぶ前から田植えが始まってて、かなり生育した緑の稲も目立つようになってます。会社の前の田んぼは少し遅くて、これから田植え。会社の前の道を南へ行くと、道路の西にこんな風景。小麦でしょうかね。この界隈では珍しいけど。その向こうの空に、丸いお月様。
ここをGoogleマップで見ると、こう。で、地理院地図で見ると、こう。
弊社やこの畑がある場所は、香長条里ではないこと、わかります。つまり、この畑が農地となったのは、奈良時代以前では、ない。そもそも物部川の流路が入り乱れ、川が流れたり河川敷であったりしてきた場所なので。昔から田んぼがあった場所は、香長条里できれいに同じ方向に区画整理されてるから、地図見たらしゅっとわかります。
この衛星写真。高知空港の滑走路を南北に横切る川が、秋田川。大雑把に申しまして、その秋田川から西が香長条里で、律令時代から田んぼがあったんだろうと思われる、古い農地。秋田川から東は、ずっと後世に農地になった場所。だから区画が四角でないし、田畑もあっち向いたりこっち向いたり。自然地形に合わせた感じになってます。
考えてみると、すごいっすよね。今から1300年以上前、まだ、奈良に都ができる前に、こんな広大な区画整理が行われたなんて。その頃、この香長平野には、それだけの人々が暮らし、田んぼを作り、海で魚を獲って生計を立てていた訳だ。
空港の滑走路の北西界隈は、田村遺跡。空港拡張工事の際に大規模な発掘調査が行われ、でてきた竪穴式住居後の数は、日本でも指折り。弥生初期から末期に至る何百年もの間、ここ大きな集落がありました。だから、律令時代になった頃も、ここは指折りの農地であった訳で、ここが香長条里になってるのは当たり前なのだ。
ところで南海トラフ大地震。
南海地震は、平均すると概ね300年に一度のペースでと言われてます。田村に弥生集落が存在したのは600年間。その間、少なくとも2回の大津波に襲われてて、そのうち一度は、宝永地震津波を超える巨大津波だったことがわかってます。今から約2000年前。田村の集落には、数百人は住んでたと思うので、甚大な被害がでたこと、想像できる。
それでも、田村は、その後も存続しており、中世には土佐国の中心地となり、そして今も優良農地として続いております。
田村では、津波だけではなくて、物部川の氾濫でも大きな被害を受けてきたと思われるけど、人々は田村を捨てることなく、暮らしてきたという歴史。
農地は、津波や洪水に押し流されたかも知れない。もちろん人的被害も甚大だっただろう。しかし、西の琴平山や、南東にあった命山へ避難して命を長らえたひとたちが、再び農地を復興させ、集落を支え続けてきたという歴史。
東日本大震災から立ち上がる人々の姿を見てわかるけど、人間って、すごいのである。