防空壕〔6488〕2021/01/19
2021年1月19日(火)晴れ
こないだの日曜日、「よさこい地方車キーボード放り投げ事件」とともに、追手筋のクスノキについて、書きました。ひろめ北側のクスノキとオーテピア北側のクスノキの大きさが違う理由についての、考察。実は、僕がその事実に気付いたのは丁度6年前のこと。地元で古くから暮らす池田さんという方から、追手門東側の植え込みについて話を聴き、昔の写真と見比べたり江戸時代の絵図を見たりして気付いた、衝撃の事実。
その時の話には、更に衝撃の事実が語られておりました。あの、植え込みと植え込みの間、道路の真ん中に、戦時中、防空壕が掘られていたという話。
クスノキを囲うた部分と囲うた部分の間に、子供の背の高さくらいの穴を掘り下げており、それを下っていくと、10人くらいが入れるスペースになっておったそう。防空壕。
しかし、空襲が激しくなると火が入ってきて危険になり、穴から這い出てお城の北の方へ逃げ直した、と語っておられた池田先輩。ちょっと、すごい、話。
追手筋の真ん中に防空壕が掘られていたという話は、衝撃的でした。世の中知らないことだらけ。
写真は、高知城の、高知城ホールの方から入ってきたところ。文学館の西。この城山の法面に、法面保護の網シートみたいなのが被せられてました。そのお陰で、ハッキリと浮き出してきた石積み。この四角い石積みはいったいこったい何なのか。チャートを、なんとなく矢羽積みみたいに積んであります。この積み方は、江戸時代のものではない。
正解を申しますれば、これは防空壕の穴を塞いだ石積み。そうだと思います。以前にも書いたけど、高知城の山の周囲には、いくつもの防空壕が掘られております。ここに、そのうちの一つがありました。ひょっとしたら、池田さん達が、追手筋の防空壕から逃げてきた防空壕かも知れません。
戦後になって、たぶん、放置していたら危険だということで塞がれたんだと思います。なので、この石積みを取っ払うと、ひょっとしたら戦争の痕跡が出現するかも、知れません。せんかも知れんけど。
池田先輩の話では、追手筋の防空壕は、戦後そのまま埋められたので、今、掘り返してみたら靴やら焼けた服やらが出てくると思う、とのこと。
考えてみたら、高知の市街地ど真ん中には、高知城以外、防空壕を掘るような山が、ない。掘るとすれば地面を掘り下げんといかん訳で、植え込みと植え込みの間のスペースは、ぼっちりだったということでしょうかね。
すぐそこに、すぐ身近に戦争があったこと、今はもう忘れ去られて遠い過去。
こうやって、せっかく、見るからに「この石積みって何?」みたいに目立つようになった機会に、「ここに防空壕がありました」といった説明板を掲げてもカマンと思いました。ついでの餅に、高知城周囲の防空壕の配置地図もあったらいいね。ついでの饅頭に、追手筋ど真ん中の防空壕のことも説明してあったら尚いいね。