追手筋、DX-7、中央分離帯〔6486〕2021/01/17
2021年1月17日(日)薄曇り
よさこいの話題、盛り上がってしまいましたねー。
で、僕も、思い出してしまいました。僕がよさこいに関わってた頃の記憶。若気の至り。恥ずかしくも懐かしい記憶。よさこい混沌期の、激しい思い出。
いろんなこと、事件があったけど、一番印象に残ってる事件を、2012年8月10日の「それぞれの楽しいよさこい」に書きました。日曜日で時間あると思うので、ぜひ、読んでみてください。あの「キーボード放り投げ事件」が起きた現場は、この辺でしたねー。忘れようとしても忘れられない青春のひとコマ。
写真は、今朝、7時頃のひろめ市場北側。追手筋。日曜市のお店設営が進む朝。今日は賑わい、どうでしょうかね。高知は、コロナも少し落ち着いてきた感じもするけど、まだまだ予断を許さない。夜の街は、閑散としてると言います。
さて。今日はクスノキと、都市計画の変遷の話。
この中央分離帯のクスノキをご覧ください。よく見ると、遠近の関係だけではなくて、手前のクスノキと向こう側、オーテピア前のクスノキは、大きさが違います。オーテピア前のは、小さい。これ、気付きにくいけど、重要なことなんでございます。僕にとっては。
追手門からひろめ前までは、江戸時代から現在まで、この広さでした。オーテピア前から東は、道路幅はずっと狭かった訳です。
現在の航空写真がこれで、戦後間もなく、昭和22年10月に米軍が撮影したのが、これ。「高解像度表示」をクリックし、追手筋界隈を拡大してみてください。追手門から現在のひろめ前までは、現在と同じ道幅で、中央分離帯も、見えます。そう。現在のクスノキは、戦争のずっと前から植えられていたもの。
江戸時代の絵図では、追手門からここまでは、この幅の広場になってます。だから、この道幅は、江戸時代から続く道幅。
1952年、昭和27年の航空写真が、これ。同じように「高解像度表示」をクリックし、追手筋界隈を拡大してみてください。まだ、戦後とそんなに変わってない。
1962年5月の航空写真が、これ。1952年から1962年の、10年の間に、オーテピア前(当時は追手前小学校前)から東の道幅が広がり、街路樹も植えられてること、わかりますね。その間に植えられたのが、あの、オーテピア前のクスノキなのであります。だから、こちらと向こうで大きさが違うのだ。どうでもいいですか?
ついでに言えば、もっと東へ行くと植栽はカナリーヤシに変わってて、南国土佐のイメージを観光的に意識してきたことも、想像できますな。知らんけど。
よさこい祭りが始まったのは、1954年。昭和29年。まだ、追手筋は拡張整備の途中だったでしょうか。ニュース映像によると、追手門の内側に特設舞台がしつらえられてて、その界隈に本部があったように、見えます。
ともあれ、こういう街路の変遷の中でよさこいは生まれ、変化し、発展してきて、「キーボード放り投げ事件」が起きたのでした。
これからも自由な自由な祭りであり続けるだろうし、変化し続けるだろうけど、地方車から、ケーブルがついたままのキーボードを放り投げる輩がでてくることは、ないと、思う。