中央公園の平壌館〔6441〕2020/12/03
2020年12月3日(木)晴れ!
今の、高知市中央公園ってのは、だだっ広いコンクリートの公園。隅っこの方に樹々が植ってたりするけど、基本的にはコンクリートの広場になってます。ああなる以前の中央公園、僕らが子供の頃から遊んだ中央公園は、真ん中に噴水があり、緑豊かで、植え込みの間に道が通るような公園でした。そして、公園の外周は、戦後の闇市の系譜のようなお店が取り囲んでおりました。外周というのは、公園を取り囲む道の外側ではなくって、内側。つまり公園側に、お店がビッシリ。そんな中央公園、覚えてますか?
こないだ、オーテピアで見つけた「月刊土佐」。昭和56年(1981年)に発刊されが高知の月刊誌「月刊土佐」は、どうやら毎月は無理やったみたいやけど、高知の様々な風景、文化、民俗、風俗などを詳細にレポートしていて、今となっては貴重な資料になってます。で、貸し出し可能なのも見つけたので、借りてきました。いや、面白い。
その中で、昭和60年1月の「第14号」に、高知の公園を特集してたので、今朝はそれをご紹介しますね。いや、面白い。
高知市中央公園の場所。そこは、戦前は小さな飲食店やカフェ、玉突き、バーなどがひしめき合う、猥雑な繁華街でした。そこを貫く路地には「美人小路」「新天地」などと名前がつけられていたのであります。
しかし、その目眩く風景は、すべて、戦争で焼けてしまったのでした。
戦後のその場所には、引揚者などによるバラック建ての飲食店が立ち並んだのはご承知の通り。歴史の必然。闇市みたいなのもあった訳です。しかし戦後復興の中で、いつまでもそうしておく訳にも参らん訳で、バラックなどを立ち退かせて公園として整備することになりました。当然、反対運動がおこる。
で、その交渉の中で、外周の一部だけ「臨時使用」することが許可されることになり、昭和31年に公園が完成してからも、その外周の店舗はずうっと存在することになった、という歴史があるのでありました。
「月刊土佐」14号では、その本が発行された当時、つまり昭和60年当時、つまり僕が高知へ戻ってくることになる年の、その公園外周を取材しております。この写真(表紙)にもあるように、当時既に中央公園の改修工事と地下駐車場が計画されており、その外周店舗群は立ち退きに揺れていたのでした。
記事には、一軒一軒の名前が書かれた絵図が掲載されており、営業していた外周店舗は約60軒。
それらの店は、その後全部撤去され、今の公園になった訳です。
この、表紙に採用されている写真は、今の、中央公園の西側の道を少し北へ入った場所。ああ。
この右端に「ホルモン」と書かれた提灯がぶら下がってます。その上の赤いテントをよく見ると「ホルモン平壌館」。ああ。
カウンターだけの狭いお店やったけど、焼肉ホルモンは絶品でした。僕の親父が好きで、僕ら子供も大好きで、よく連れていってもらった平壌館。その写真がこうやって残ってるとは思わんかった。貴重な貴重なアーカイブ。35年後の今となっては、貴重過ぎるアーカイブ。
1980年代の「今」が残る「月刊土佐」。
このにっこりではよく書くけど、「今」を記録しておくことって、大切やね。