高田さんと大野さん〔6422〕2020/11/14
2020年11月14日(土)晴れ
大野台地。高知県東部、田野町と安田町にまたがる海成段丘。第三紀更新世に、浅海底に堆積したものが、プレート運動の影響で隆起して標高70mくらいになった台地。
この見事な田畑が広がる平かな台地は、浅い海で形成されたのでした。四国山地から流れ込む河川(古安田川や古奈半利川)が運んでくる土砂が浅海底に平らかに堆積する。水の下なので、平らかに平らかに降り積もる、土砂。その平らな海底が、いつしか隆起を繰り返して地上に現れ、さらなる隆起で台地になったという地球の営み。
Googleマップで見たらこう。地理院地図の色別標高図で見たらわかりやすいね。見事に平らかな表面の台地、大野台地。ここが浅海底だったのは、ほんの十万年から数十万年前。こないだのこと。それがこのような素敵な風景を醸し出しています。
更新世の段丘。だから、芋作ったりするのに適した土壌でできてます。水捌け、いいし。でも水田には適してないですね。独立した台地なので、山から水が流れてこないので、水がない。
今は、水は大野地区の皆さん共同でポンプアップしてるとのこと。だから、水田も、あります。
この色別標高図見たら、ここが昔から大きい大きい野であったことは、想像できます。なので「大野山」と呼ばれてきた。らしい。大きい野原の山。
その大野山の南に、南北朝の頃、京の都の公卿がやって来て領主となり、大野豊前守を名乗ったとされます。田野八幡宮の本殿裏手に、大野豊前守の墓所とされる場所がありますきんね。
その京の公卿の大野さんがやって来るよりも前、鎌倉初期に、これも京の公卿である野々宮左大臣の一門とされる人物が、流罪となってやって来ました。そして田野の北方の高田山に住んで「高田法橋」と称し、高田氏の祖となったんだって。高田山は、少し高い場所に田んぼがあったんでしょうな。
話が長くなったけど、その高田さんと大野さん。両方とも京都の公家さんを祖とする家で、その苗字から文字をそれぞれ拝借して、「田野」になったという話を書きたかったのでした。田野町の由来の話っすね。
その高田家も大野家も、戦国の頃には勢力が衰え、大野城は媛倉右衛門という領主の城となりました。それも長宗我部元親の軍門に降り、この界隈も長宗我部の支配下となったとのこと。
高田さんと大野さんが居たから、今の田野町があるのであります。そして両者とも、地名が苗字になってます。つまり。ここは、標高の高い場所の小さな「田」んぼと、大きな「野」があった場所なのでした。田んぼの野が広がってたのではなくてね。
今はポンプのおかげで、この写真のように田んぼの野も広がるようになった、田野町。