陸軍病院、国立病院〔6415〕2020/11/07
2020年11月7日(土)小雨
今朝は朝倉方面へ来てます。国立高知病院の裏手、山裾の道に、こんな標柱があるの、ご存知でしょうか。フェンズ際にひっそりと建ってるので、気付いてる人も少ないかも知れません。この黒い標柱に刻まれているのは「高知陸軍病院跡」の文字。
現在の国立病院は、戦争中の陸軍病院から引き継がれたもの。現代は、過去の歴史文脈の延長線上にあったりするのでした。
ご承知の通り現在の高知大学朝倉キャンパスは、陸軍歩兵第四十四聯隊があった場所。なので、界隈にはたくさんの痕跡が、残ってます。例えば弾薬庫。これは、なんとか保存していく方向になってるようで、良かった良かった。
聯隊本部の跡は大学本部になり、将校集会所の前の池は、今もそのまま残ります。
そうそう。朝倉中学校の上には陸軍墓地があって、今も、そのままの姿で往時の雰囲気を残しているのもご承知の通り。
そして陸軍病院。昭和21年1月、陸軍病院から国立高知病院になりました。
全国の国立病院見てみると、元陸軍病院というケースばかりですね。そう。つまり、そういうことでした。国立病院は、そういう成り立ちであったのでした。いや、少ないけど海軍病院も、国立病院になっております。呉とか舞鶴とかね。
海軍と陸軍は、戦時中はしのぎを削り、とっても仲が悪かったりした訳やけど、その兵隊さんの数や施設の数では、陸軍が海軍を圧倒してました。海軍は艦隊などにお金がかかる資本集約型で、陸軍は労働集約型であったのかも知れないなどと思ってます。僕が勝手に。
で。
今朝の新聞に、こんな記事。旧海軍が、第二次大戦末期に長野市安茂里の山に構築しようとしていた地下壕の記事。大戦末期の長野と言えば、現在の長野市松代に陸軍が中心になって建設しようとしていた「松代大本営」ですよね。東條英機らが、本土決戦を視野に国の中枢を海から離れたその場所に移し、地下の大要塞を建設しようとしていた話ね。小松左京「地には平和を」は、8月15日に戦争が終結せず、政府が松代大本営に移っていた話でしたよね。
海軍ってのは海の軍隊で、その中枢である軍令部とかを長野の山中に移転しよう、という話だから、すごい。そこまでして戦争を続けようとしてた訳だ。
その後海軍は、米軍上陸は南九州の線が濃い、ということで大本営を奈良県天理市に移す計画を、実行に移してました。
やはり、陸軍とは一緒に行動できん、という感じにも見える、海軍さん。戦争中に何やってんだか。
ともあれ陸軍病院と海軍病院。終戦後国立病院となりました。
国立高知病院の裏手。フェンス脇にひっそりと、そのことを伝える黒い標柱が立っています。