森林鉄道のカーブと想像力〔6368〕2020/09/21
2020年9月21日(月)晴れ!
お彼岸。明日が中日やけど、今日もたくさんの人が出てます。僕も今日は田野町。高知県東部の、高知で一番面積が狭い町、田野町。藩政期には田野学館があり、中芸地区の文化の中心として栄えた、町。魚梁瀬杉を中心とした森林資源が重宝された時代、田野町、安田町、奈半利朝、北川村、馬路村には網の目の様に森林鉄道が敷設されたのはご承知の通り。明治後期から昭和にかけてのこと。
総延長は250kmに達するというから、すごい。今も、各所に、その森林鉄道の痕跡を見ること、できます。
建設は、明治40年頃から昭和18年まで。材木という重量物を輸送するのに、鉄道というインフラはとても役に立った訳です。道路作るより費用もかからんし、安定してるし。
その鉄道は、人間も輸送してくれたと言いますきに、山は栄えたでしょうねー。
しかし、道路が整備され、トラック輸送が増えるに従って軌道撤去が始まりました。最初の撤去が昭和33年。昭和39年には、全線廃止となってるので、アッという間にトラック輸送に取って代わられた訳ですな。
20世紀にはいって、夢の輸送インフラとして登場した森林鉄道が、1964年には終焉。世の中の、流れの速さよ。変遷の激しさよ。感慨深いもの、あります。
僕が子供の頃、高知市から田野までは、車で4時間くらいはかかってたと記憶します。狭い未舗装の道が多くて、当時は乗り物酔いをしていた僕にとっては試練の4時間。
まだ森林鉄道の痕跡が残ってて、貯木場がたくさんあった、あの頃。林業が盛んで、材木がお金になってた時代。
ここは田野八幡宮さんの南側。今は広い空き地になってる場所は、森林鉄道の終点と貯木場がありました。僕が子供の頃は、まだ、貯木場。
この写真の、なにやら工事している橋は、ここに森林鉄道を通す際、八幡様の参道と交差してしまうので架けられた橋。お隣の奈半利町にも、三光院というお寺さんへの参詣道と森林鉄道が交差するところに、今もゆかしいトンネルが残っています。
藩政期、魚梁瀬などの材木は、安田川や奈半利川の川流しで運んでました。それが、明治後期になって森林鉄道250km。
ところがその森林鉄道も昭和39年にはなくなってしまい、トラック輸送全盛に。
ところが日本の材木が売れなくなり、山がお金にならなくなって、材木の輸送自体が減ってしまいました。歴史の中では、ほんの最近のできごと。
これから先、日本の社会の姿はどうなっていくのか、想像もつきません。想像力が少しでも豊かなヒトか、運のいいヒトが、成功していくんだろうねー。
僕も、もっと想像力を鍛えなくっちゃ。
この写真の、橋の下の道。美しいカーブを描いて、伸びてゆく。このカーブは、ここをまさしく森林鉄道が走っていた痕跡カーブ。鉄道ならではの美しいカーブを見ながら、ここを、材木を満載した小さな汽車が走っている風景は、いつも想像してます。そんな想像力は人一倍あるんですが、まったく自慢にはなりません。