山の緑を絵にしたい〔6241〕2020/05/17
2020年5月17日(日)晴れ
山の緑が、だんだんと濃くなってゆく、5月。すごい。
雨上がりの緑は、特に、すごい。こんな緑を、絵画にすることできたら楽しいだろうな、などと思うけど、絵画のセンスと技術がゼロの僕は、こうやって写真に撮って(それもコンデジ)楽しむばかり。
昨日、岸田劉生さんの絵「道路と土手と塀(切通之写生)」と、その写生した場所のこと、書きました。岸田劉生さん、銀座のど真ん中で生まれ育ったと書いたけど、本当にど真ん中なんすね。
そこは、父親が起業した「楽善堂」という薬屋で、「精錡水」という目薬が大当たりしてとても繁盛していたお店とのこと。その場所は、服部時計店のところと言うから、本当に銀座ど真ん中で、そこの四男として生まれ、過ごした岸田劉生。
岸田劉生といえば「麗子」を思い出すけど、明治から大正期、日本の洋画を牽引した偉大な画家であることは、論を俟たないと思います。
岸田劉生すごいけど、そのお父さんの岸田吟香もすごいっすね。ウィキみたら、こんな感じ。明治の日本には、こんなスケールの人物もおりました。
日本で最初に(明治5年)卵かけご飯を食べた人物、とされてるのも、なんか、すごい。誰が検証したのか知らんけど、僕らが大好きな卵かけご飯の元祖は、麗子のお父さんのお父さんだった訳です。
で。
岸田劉生さんが描いた「道路と土手と塀(切通之写生)」の、左側の白壁は、山内侯爵邸の白壁、と、昨日書きました。土佐山内家は、山内一豊を初代として、藩政期を通じで土佐の殿様であり続け、その最後の殿様が、16代山内豊範。その長男が17代目御当主豊景さん。明治8年生まれ。明治になって侯爵家となった山内家は、高知と東京に邸を構え、貴族院議員とかをやったりしながら戦後を迎え、18代豊秋さんを経て、現在御当主は19代目豊功さん。
岸田劉生さんが「道路と土手と塀(切通之写生)」を描いたのは1915年なので、その時豊景さんは、40歳なので、山内公爵家の御当主として油乗り切っている時代でしょうかね。
その豊景さんも、1957年に、高知の私邸で亡くなられました。
この すごい山の緑は、山内家墓所。ゲートが閉められてて、一般人は入ることできません。そのゲートのところから撮影した、山内家墓所。ここからは、入れない。
この一番奥に初代一豊さんのお墓。そして、チャートが主体で一部石灰岩も見える石段の左右に、歴代の藩主やそのご家族の墓所が、並びます。初代一豊から幕末の16代豊範、そして17代山内豊景侯爵まで。でも、15代豊信だけは、ここに眠ってません。山内容堂の名で知られる豊信さんのお墓は、京急立会川駅から見える丘の上に鎮座まします。
昨日の絵画の白壁の家。あの邸に住んでいた豊景さんは、この石段を上がった、一豊公のすぐ手前の右手に、眠っておられます。
雨上がりの新緑の中。この風景を岸田劉生だったらどう描くだろう。いや、こんなモチーフは描かんか。
ああ。僕には画力のかけらもない。
こんな巣ごもりの状況で、絵を描けたらいいのに。
♪ぼくにー 絵画がー 描けーたなら〜