重要性を増した「急げ!!隼人神社だ」〔6184〕2020/03/21
2020年3月21日(土)晴れ
そんな訳で、今朝は、岡豊の医大近くまで自転車。そこで自転車を折り畳んで車に乗せ、出勤して参りました。
面白いっすね。普段あんまし通らんような場所を走ってくるのは。
ここは田辺島。たべしま。朝4時過ぎ。田辺島は、古い古い集落で、集落の中を通る狭い道にはなかなかの趣きがあります。その集落の真ん中に、標高10mちょっとの小山。
幾度も書いてきたけど、かつて今の高知の市街地が海だった頃、その古浦戸湾に浮かぶ島のひとつだった、田辺島。島であった痕跡が、今も地名に残っているのであります。葛島や竹島や比島や洞ヶ島のように。
で、田辺島のてっぺんに鎮座ましますのは隼人神社さん。正式名称は知らんけど、地元では隼人神社。はいとさん。産土神であり、田辺島のシンボル。
以前にも書いたけど、祀られてる福留親子のことを、少し紹介しておきましょう。
言わずと知れた、長宗我部の重臣。
福留親政は、国親、元親に仕え、武勇をもって聞こえた猛将。その佩刀は「荒切」と言われた三尺六寸の刀。なんで「荒切」かと言うと、戦場で、「まず、俺が敵を荒切りにしていくから、後へ続くお前らが小切りにせい!」みたいなことを言うて敵陣に切り込み、実際にどんどんと荒切していったという話ね。
で、その息子が福留儀重。というか、福留隼人儀重なので、隼人という呼び名の方が有名。隼人もこれまた猛将で、「蛇のハミもそっち寄れ。隼人さんのお通りじゃ」と土佐の童謡に謡われたという人物ね。武勇に恐れをなして、マムシも逃げ出す男だった訳だ。
その親子が祀られたという、隼人神社。
60段ほどのチャートの石段は灯りに照らされ、闇夜でも参拝できるようになってます。
写真は、石段の下から撮影したもの。竹藪がちょっと鬱蒼だけども、福留氏がここを本拠とした頃は、見晴らしの良い小山だったと思われます。
国分川を遡上してくる敵から長宗我部を守る。藩屏としての役割を、ここで果たしてた福留一族。
親政は、1577年に伊予で戦死、隼人は1587年に豊後戸次川の戦いで、信親と一緒に戦死。隼人には他に4人の男兄弟がいたけど、全員、長宗我部の戦の中で戦死してます。とんでもない時代でしたねー。
平和の世になり、田辺島の鎮守の神様になった福留親子は、今も地元で尊崇され続けている。
そしてこの山は命山。大切な命山。
東日本大震災の前から、こんなのが立てられてました。
この立て札、今もかわらず、あります。そのまんまで。平成18年、大津小学校6年生が描いた案内板。描いた小学生も、今は26歳くらい。
描いたときは思ってなかったかも知れないけど、東日本大震災を経て、重要性が増した、立て札。