国分川の春、帰宅RUN〔6183〕2020/03/20
2020年3月20日(金)晴れ!
今日は、会社へ来てます。諸々、たまってる仕事などを片付ける。昨日の夕刊にも、また、牛乳の話を書いてくれてましたね、高知新聞さん。ありがとうございます。世の中、捨てたものではない!
みんなの温かさが身に染みる。
で、今日は走って帰りました。いつもほど遅い時間ではない、まだ、明るい時間帯。車を、岡豊の医大近くのコインパーキングに停めといて、そこからの帰宅RUN。こないだ一度やって、病みつきになってしまった。普段は通らないような地域を走ることの楽しさよ。
そんな訳で、ここは医大の南の国分川。
なんとなく僕らは「医大」と呼んでしまうけど、今は「医大」ではなくて「高知大学医学部」。そうなったのは2003年で、それまでは高知医科大学だったから、僕らにとっては「医大」なのだ。
高校の同級生が何人も進学したけど、彼ら彼女らが合格したのは「高知医大」。まだ、開学したばかりの「高知医大」でした。
今はこんな感じの航空写真ですが、1970年代は、こう。まだ、田んぼしかない。医大のかけらもない長閑な風景が、ここにありました。
東の、岡豊山の上にあったのは、歴史民俗資料館ではなくって岡豊山ハイランド。覚えてますか?
岡豊山は、ご承知の通り長宗我部氏の本拠。この国分川の流れを見るたびに、長宗我部の時代は、この川はどんな流れだったんだろう、と思ってしまいます。
岡豊山の南麓、国分川沿いは、どうやら川湊みたいになってて、荷揚げ場があったようです。浦戸湾、そして太平洋とつながっている国分川の流れは、物流の動脈だったのか。
現在の流れ、水量を見ても、その辺の風景が想像できない。ここに水が豊かにあるのは、このすぐ下流に堰が作られてるからで、それがなければ、大きな船が往来できるほどの水量には見えません。
この少し上流には国分寺。そして、平安時代には国庁があり、古代の土佐の中心地がありました。その頃の国分川の流れはどうだったのか。弥生時代、土佐の中心は田村にあり、弥生時代が終焉すると、比江、国分界隈に中心が移動するけど、その頃の国分川はどんな流れだったのだろうか。
たぶん、気候変動や土砂の堆積、地盤の沈降や隆起によって、国分川の流れ、水量は変遷してきたと思われます。その変遷が、土佐の国庁や、長宗我部氏の繁栄などにどんな影響を与えてきたのか、研究してみたら面白いのにね。
もし、高知の城下が古代のように海のままで、国分の流れが大きく深かったら、今も、土佐の中心はこの界隈だったかも知れないのに、などと妄想を暴走させる、春の宵。楽しいね。楽しくないですか?
世の中はコロナコロナだけども。
お彼岸。春分の日。
春宵一刻値千金、には、ちと時間が早いけど。