舟入川の役割と護岸〔6092〕2019/12/20
2019年12月20日(金)晴れ
暖かい朝。昨夜は飲み会がなかったので家まで走って帰ったけど、寒くないので汗ビショになりました。でも足元は、新しいランニングシューズのお陰で快適。いつまでも走っていたくなる走り心地。
そんな訳で今朝は自転車出勤です。舟入川沿いから電車道を走って出勤しました。
ここは、関。この左手の山は、戦国期に細川氏につながる天竺氏が居城を構え、長宗我部の時代になると一条内政が住まわされた大津御所があった、山。
正面に舟入川を堰き止める堰があり、その向こうに水道タンクのある山。その、堰のところの左手は、三方を山で囲まれた「関」集落。
南側の山は高天原山で、旧石器時代から始まって古墳時代に至る、夥しい遺跡があるので有名。つまり、太古の昔から、この界隈で人類が生活していたのでありました。
舟入川は、ご存知の通り野中兼山さんによって開削された、物部川水系と高知の城下をつなぐ用水路。完成したのは万治元年(1658年)。延長10.5km、灌漑面積は1090haという壮大なインフラストラクチャー。
関という地名からも明らかなように、昔からここには堰があり、四方へ灌漑の水を流していたのでありましょう。現在の堰の構造では、舟の往来は、無理。
舟入川は、読んで字の如く舟が往来する川。灌漑用水であると同時に、物資輸送の大動脈でもありました。延長10.5knの間には、各所に堰が設けられた訳だけども、物部川上流から運ばれてきた米、木材、薪炭などは、堰をどうやって通ってたんだろう、という素朴な疑問。
荷物を一旦下ろして、また積んで、みたいなことやってたんだろうか。
春野の新川川には、「新川の落とし」という場所があって、仁淀川水系の物資を城下へ運ぶ輸送の結節点となり、荷物の揚げ下ろしをやってたことから、繁華街として栄えた歴史がある。
関にはそんな歴史はなかったみたい。すぐ下流に大津の船戸があり、川港として栄えてたからね。
今は物流を担う役割はなくなった。灌漑用水としては今も重要。
野中兼山の時代、そして江戸時代を通じで、工夫された石積みが、川の壁面を賑わせていたと思う。今は、ここもそうだけど、ずっと上流の方までコンクリートの擁壁になってしまった舟入川。
どうなんでしょうかね。土木素人なのでわからんけど、コンクリートの方が施工も管理も安くて楽なんでしょうかね。
この舟入川は、この香長平野が肥沃な平野である限り、流れ続けていくと思います。いつかまた、チャートや石灰岩の石積みで川岸が彩られるようになったら。そんな風景を妄想しながら、寒くない風の中をペダル踏んできた、朝。