物部川踏切〔6060〕2019/11/18
2019年11月18日(日)小雨
高知。高知はぬくいね。今朝もぬくい。
踏切って、英語ではrailway crossingとか言うみたい。これを「踏切」と訳したのは、誰だ?
ウィキを見ても、「日本で踏切と呼ばれるようになったのは1870年代の末頃で、それまでは横路や横切馬車道などと称されていた」と書いてるだけで、誰が「踏切」と言いはじめたのかは、書いてない。
新橋横浜間に鉄道が走ったのが1872年だから、日本に鉄道が敷設されはじめた時期に「踏切」と呼びはじめた訳だ。
「大言海」ではどうなってるのか。我らが大槻文彦先生は、こう書いてます。
踏切
(一)人道ノ、鐵道線路ヲ横切ル處。
(二)相撲ニテ、土俵ノ輪郭ニ足ヲ踏ミ出スコト。
「人道ノ」とあるように、最初の「踏切」は人間が歩いて線路を横切る場所だった訳だ。そりゃあそうだ。1870年代に車は走ってない。車は走ってないけど馬車は走ってたから、「横切馬車道」と呼んだりしたんですな。
すると、馬車道が線路を横切る場合が「横切馬車道」で、人間が歩いて横切るのが「踏切」だった可能性もある訳で、それをめんどくさいので「踏切」に統一していった、という歴史があったのかどうかは知らんけど、どうでも良いですか?
ともあれ踏切。高架にしたり跨線橋にしたりするのは大変なので、一般的にはたくさんの踏切がつくられた、日本の国土。最近、土讃線もかなり高架になって、踏切、減りました。
土佐くろしお鉄道のごめんなはり線も、ほとんどが高架で、踏切、本当に少ないっすね。しゅっと思い浮かばんくらい少ない、ごめんなはり線の踏切。
かつて土佐電鉄の安芸線だった頃は、高架ではなかったのでたくさんの踏切がありましたが。
ここは、会社のしゅっと北。ここ。
今はごめんなはり線の高架が頭の上を通ってるけど、土電安芸線だった頃、ここも踏切でした。1974年に廃線になってるから、この航空写真は、廃線になった直後の頃でしょうかね。踏切も写ってるし、その東には「物部川駅」という駅も、ある。
弊社の南国工場も、現在と比べると建物すっくない。
で、1960年代になると、こう。もちろん踏切はあるし、物部川駅もあります。南国工場の建物は1棟しかなくて、離れた南端に社宅が写ってます。
ごめんなはり線は、可能な限り踏切をつくらない、という思想において山手線と同じなんですね。利用者数は、山手線1週間の延べ利用者数が約2500万人で、ごめんなはり線は2万5000人だから、えーと、1000分の1だけど。でも景色は山手線の1000倍きれいな、ごめんなはり線。