第二中里踏切〔6059〕2019/11/17
2019年11月17日(日)晴れ
今朝も東京。今日、成田からJetstarで帰るので、今、成田空港へ向かう電車の中でのったりまったりしながら、このにっこりを書いてます。文章がまったりしてるのは、そういうこと。日曜日ですきんね。
昨夜も上野泊。今朝は5時半にホテルを出て、上野の山から更新世段丘尾根筋RUNにしてみました。武蔵野台地の武蔵野面ね。土地条件図で見ると、こう。ローマは7つの丘から始まった、と言うけど、江戸の町も、上野台地、本郷台地などの7つの丘で成り立ってると敬愛する陣内秀信先生が言うてますね。上野台地の先っぽが西郷さんなので、そこから尾根筋を北上してみた訳だ。
芸大の横を抜けると、谷中墓地。谷中墓地、という語感から、なんか、谷間の低湿地をイメージするけど大間違い。谷と谷の間は、台地なのだ。谷と谷の中の高台が谷中で、そこに、広大な墓地があるのでありました。でかい。それにしても巨大な墓石が多いねー。そういう文化だった。今、あんな巨大な墓石のお墓を作る人もおらんろうけど、巨大な墓石が権威、家格の象徴だった時代がある訳ですな。
もし住宅地だったら、かなりの高級住宅地として君臨してたに違いない、谷中。
墓所となったおかげで、自然の残る静かな場所に、なりました。
いや、今日書きたかったのはお墓ではない。山手線。
そう。昨日、長時間の運休で話題になった山手線。有名な話だけども、山手線には、今も一箇所だけ踏切があります。田端と駒込の間。
第二中里踏切というのが、現存する唯一の山手線の踏切なのである。知ってましたよね?
山手線の思想というのはかなり優れてて、基本、踏切をつくらない。これは建設当初からの思想ね。うまく地形を利用して、高架にしたり切り通しにしたりして、とにかく踏切をつくらないのが山手線建設に際しての思想であった訳だ。
でも、そうは言うても、いくつか踏切はあったらしい。どれも小さいのやけど。そんなこんなの踏切もいつしか廃止されて歩道橋や人道トンネルがつくられ、今、こんな風景をみることができるのはここだけなのだ。
でもね。正確な話をすると、ここの踏切は、当初からあったものではないのだ。いや、確かめた訳ではないけど、そうらしいのだ。ここに書いてるから、間違ってたらここが間違ってるのである。それほど偉そうに言う話でもないけど。
つまり、当初はこの東で、道路は線路をまたいていた。ところが、このように貨物線(今は湘南新宿ラインね)と交差させるために山手線の方が嵩上げされ、道路でまたげなくなってしまった。だから踏切になっちゃった。というものらしい。
元々道路があるのを、山手線の都合で廃止してしまうのもいかがなものか、ということだったんだろうね。知らんけど。
地理院地図の航空写真を見てみよう。この十字の場所が、第二中里踏切。昭和11年の航空写真を見ても、踏切に見えるから、ここが踏切になったのはそれ以前なのかな。
この西に踏切が見えるので、それが今は無き「第一中里踏切」なんでしょうな。
今、この踏切の改良が検討されてる、と、さっきのページに書いてあります。
山手線は、東京の起伏地形を利用して実に見事につくられてるんだけども、ここは、上に書いたイレギュラーな理由で踏切になってしまったのだ。
ここは、田端から駒込へかけての台地の斜面。田端駅って、崖下にありますもんね。こんな地形だから、うまくやれば高架か跨線橋にできるのにね。
見てると、そんなに交通量が多い訳ではないから、車には、この東の大きな道路の跨線橋を通ってもらい、歩道橋をかけるのが現実的かも知れません。僕が通る訳ではないので勝手なこと言うてますが。
山手線の本数からしたら、時間帯によっては開かずの踏切になることは、想像できます。風景としてはそんなのがあっても良い気もするけど、山手線建設当初の思想に鑑みるとね。さて。高輪ゲートウェイの駅がどうなるか、なんてことより、この地形で、地形をうまく利用して、踏切をどうしていくのか、の方に興味がある僕は、少し何かが捻れてるのかも知れません。
さあ。そんなことより高知へ帰ろう。