五台山の地名〔6019〕2019/10/08
2019年10月8日(火)晴れ
なんか、台風が気になりますね。この週末、丁度こっちの方へとやって来そうな予報が不気味。もう、今年の台風は終わりにしてもらいたいけど。
昨夜は走って帰りました。徐々に走りやすい気候になってきますな。汗はかくけど、靴の中がグチャグチャになるほどではありません。毎回靴洗うの大変なので、助かる助かる。
で、今朝は自転車出勤。写真は、今朝5時頃の高須。絶海池の東端に架かる橋の上から東の方向を撮影。向こうに介良富士、鉢伏山が見えてます。その右手の明るいところは稲生の石灰。朝5時は、まだ真っ暗。コンデジのシャッターを5秒開放して撮影したら、こんな感じで美しい。
ここは、五台山の北。長江という地区。ながえ。地理院地図でみたら、この十字の場所。そう。よさこい節で有名な、かのお馬さんは、長江の鋳掛屋の娘さんね。
そんな訳でで、今日は、五台山麓の地名を見てみましょう。
大島、という地名が見えます。五台山は、その昔、浦戸湾に浮かぶ大島という島だった。その昔というのがどの昔なのかと言うと、紀貫之が土佐に赴任してた頃は、間違いなく海でした。
今も、絶海池が、この界隈が全部海だった頃の風景を今に伝えてくれてます。
地理院地図で標高を見てみても、五台山の東側、鉢伏山との間の田園地帯は今も0m地帯。だから、中世、夢窓疎石が五台山にやって来た頃も、五台山の周囲は海だったんでしょうかね。海の浮かぶ、五台山。
五台山と呼んだり、大島と呼んだり。
で、ここ、長江。長い江。大島の北麓の、海に面した長い江が、この地名になりました。その南側の、少し入江みたいになった場所、現在青柳中学校がある界隈は、福浦。読んで字の如し。港があったんでしょうな。裕福な浦、福浦。
屋頭は、海に突き出す岬のことでしょうか。
東端をまわると、東和。その西に、たぶん泉が湧いてた和泉という地名があるから、東和泉、ということなのかどうなのかは知りません。
倉谷、鳴谷、大谷は、全部、谷。蔵のあった谷、なにやら音が鳴る谷、大きい谷があったのかどうなのかは知りません。
かなり栄えてた、五台山麓中心集落であったのが、五台山小学校がある坂本。五台山へ上がっていく坂の麓で栄えた集落ね、たぶん。
吸江については、以前書いたから、ここでは繰り返しません。これ、読んでね。
青柳橋は、明治5年、稲荷新地と五台山の間に橋が架けられたとき、橋の袂に大きな柳の木があったので青柳橋。青柳中学校は、その青柳から名前を頂いておるようです。ずいぶん青柳橋からは離れてるけど。
地名というのは、なにがしかの意味があり、その土地の成り立ちを教えてくれることも多いもの。
で、絶海池はたるみ池と読むけど、室町初期の禅僧で、五山文学の双璧と謳われた絶海中津(ぜっかいちゅうしん)さんが、ここで修行したから、絶海池となった、という話。
ただ、地形を見ると、この池は海と陸地の間、海水と淡水の間に位置してるから、最初から絶海池で、ここで修行した坊さんが絶海という道号をつけた、ということは考えられないのか、と、以前妄想したことも、あります。まだ、結論は出てない、僕の中での謎のひとつ。ああ。悩ましい。
どうでも良いですか?