関の堰〔6020〕2019/10/09
2019年10月9日(水)晴れ
秋晴れ。でも、風は強かった。
昨日も走って帰ったので、今朝も自転車出勤だったのであるが、正面から強い風。東風。向かい風。逆風。ペダルを踏んでも漕いでも前に進まん感じね。いつもより運動になりました。
ここは大津の、関。舟入川の北岸。朝5時頃。ここ。対岸が電車通りで、その南の、三方を山に囲まれた集落が、関。古墳も多いというこの地区は、古浦戸湾の港に近い、安全な場所として、太古の昔から栄えてきたと思われます。昔はなんという地名だったのかは、知りません。今は、関。
その地名、ここに舟入川の堰が築かれたことに由来するのはほぼ間違いないと思います。直感的に、そう。だからこの立派な堰は、姿形を変えなから、江戸時代からずうっとここに存してきた、という訳だ。関にお住いのみなさん、ご存知ですか?
でも、ここが「舟入川」となったのは、藩政期になってから。野中兼山さんの仕業。だから、堰ができたのも、それ以降。
と、思うたけど、そうなのか?
舟入川が、物部川の山田堰から10km以上の人工水路として開削されたのは、万治三年(1660年)のこと。広大な土地を潤す灌漑用水であるだけではなくて、物部川水系と浦戸湾を繋いで水運の便を図ったという途轍もない構想の土木工事が、舟入川。
よくもまあ、そんな構想を思いつき、しかも実行したもんだ。先人の知恵と実行力には感心するばかり。仁淀川の八田堰から春野の平野を潤す灌漑用水を引き、それを浦戸湾に繋げて仁淀川水系と浦戸湾の水運の便を図ったのと、同じ。すごいね、野中さん。どうにもこうにも。
戦国期、戦国を勝ち抜く武将は、いずれも、土木技術を磨いてました。素早く陣地を築いたり、砦を構築したり、その砦を攻めたり。大軍勢を渡河させるのも、港湾を整備したりするのも、街を建設したり治水したりするのも武将の仕事。だから、戦乱の時代が、そういった土木技術をどんどんと進歩させたのは、間違いございません。
昔、備中高松城へ行ったとき、秀吉がそこを水攻めにしよう、と発想し、実際に土木工事でそれを成し遂げたのを見たとき、秀吉ってえのはとんでもない人物だ、と思うたけど、今になってみれば、当時の武将としては、ああいった発想と工事をするのは、あり得る話だと思えるのであります。まあ、すごいけど。
話が逸れました。
と、思うたけど、そうなのか?の話でした。
ここは、舟入川になる以前から、明見川が流れてたと思われます。物部川が伏流水となって扇状地を流れ、南国市のどこかで湧き出して、川となって明見川。
紀貫之の時代に港があったのは、この西の船戸辺りだから、明見川は、そこで古浦戸湾に流れ込んでました。
だから、藩政期以前からここは川だったと思われるわけで、汽水域だったと思われる訳で、そこに咳があった可能性も、無いわけではない訳だ。そうすると、関という地名も、藩政期以前からあったかも知れない、と思った訳だけども、そんなこと、長宗我部地検帳を見たらすぐ判る訳で、朝からイラん妄想をしてしまったと反省してます。
堰の向こうに見える山影は、戦国期、細川一族の天竺氏が本拠とし、長宗我部の時代には、一条内政が住まわされた大津御所となった、山。
当時もここには川が流れ、天竺右近花氏さんも、一条内政さんも、あの山から川を見下ろしながら暮らしてたんだと思います。堰があったかどうかは知らんけど。