筆山ホールから筆山〔6008〕2019/09/27
2019年9月27日(金)雨
今日はですね。故あって、母校へ来てます。中学高校6年間過ごした場所。
その6階から、この写真を撮ってみたいという念願、叶いました。
航空写真でみたら、この十字の場所ね。ここ。この現在の校舎は、Jr.1号が中学生の時にできた免震構造の建物で、なかなかキレイ。
大学4年生のJr.2号は、この新しい校舎しか、知らない。
僕が6年間過ごしたのはこの校舎ではなくて、この航空写真の旧校舎。南側が中学棟で、北側が高校棟。僕は、この旧校舎しか知りません。入学の前年に完成した、新しい校舎だったけど。そしてこの旧校舎ができたとき高校生だった姉は、その前の木造校舎と、この校舎を知ってる、という訳だ。
この写真。筆山ホールという部屋から見た、筆山。
ここで中学生をやってた頃から、なんで筆山、あの部分が抉れてるのか、不思議でした。今は緑が濃くなってわかりにくいけど、抉れてる筆山。で、潮江在住の土佐史の大先輩に教えてもらい、このにっこりに書いたこと、あります。そう。あの抉れは、土取り場の痕跡。
この界隈は、潮田が広がるような低くて柔らかい地盤の土地。田んぼが広がる、潮江。「潮江」ですきんね。この漢字を眺めただけで、地盤、わかる気がするよね。
潮江開発の契機になったのは、明治37年の、電車開通。桟橋が整備され、その桟橋から物資や人を輸送するため、田んぼを突っ切り、ひたすら真っ直ぐの線路が敷設されたのでした。
この、昭和22年に米軍が撮影した航空写真でも、田んぼの中を、地形を無視して直線の線路が引かれたこと、わかります。
電車開通の後、電車通り沿いを中心に、開発が進む。開発を牽引したのは、学校。
高知工業学校(高知工業高校の前身)が、現在の永国寺キャンパスのところから現在地に移転してきたのは、昭和17年。その13年前、昭和4年に、追手筋から移転してきたのが高知商業学校。今の県民体育館の場所ね。
でも、学校立地としてその先鞭をつけたのは、商業学校移転の3年前、大正15年につくられた高知県女子師範学校と併設の県立高知第二高等女学校。今の潮江中学校の場所に、建てられました。
そこは、地盤が低くて柔らかい土地だった。そこで、あの筆山から土を取ってきて埋立て、盛り土して、学校が建てられたんだって。なかなか、やります。今の潮江中学校、確かに、その周囲に比べて一段高い土地の上に立ってますもんね。あの筆山の抉れは、その土地造成の痕跡なのでありました。この場所から、その痕跡を撮影してみたかった、痕跡学会会長さん。
しかし。
その盛り土の女子師範よりも前に、この場所に学校を作った人が、居ったのです。旧制土佐中学校。女子師範学校の4年前、大正11年に、この場所に建てられてます。古い。ひまわり乳業の前身が創業した年。私立だから、たぶん、盛り土するような予算もなく、そのままの土地に建てられたんだと思います。
その後、この地区には学校が並び、住宅が建ち、そして桟橋界隈には工場が誘致され、潮江は変わって行きました。
盛り土はせんかったけど、今の新しい校舎は免震構造。一階部分も、嵩上げされてて、浸水対策が取られた校舎。万全。
僕は、青春を過ごしたあの旧校舎が懐かしい。食堂の向かいにあった美術室とかで、バンド練習してたあの頃。今みたいにバンドが公認ではなく、ちょっとした邪魔者扱いだった、あの時代。
吹奏楽部の部室前には高校棟の屋上が広がり、遅刻してきた後輩を、そこで正座させたりしてました。今なら体罰になるんでしょうかね。
ちょっとここには書けんような、あんなことやこんなこともしでかしましたね~。
今だったら大変。時代は変わった。変わりました。
こんなキレイな免震構造の建物で、生徒たちはどんな思い出をつくってるんだろう。思い返せば宝物になってしまう、思い出。