条里制にさからって〔5946〕2019/07/27
2019年7月27日(土)晴れ
夏空。セミの声。良い土曜日です。会社に来てます。
昨日は自転車で帰ったので、今朝は走って出勤。いつもとは逆。夏の朝日を正面から受けながら、走って会社までやってきました。
今朝のルート。
家から若松町を通って青柳橋。五台山の南麓を下田川沿いに東進、稲生の石灰を抜けて衣笠。衣笠から、向山戦争遺跡がかつてあった山の下を抜ける「坂ノ松トンネル」を通って伊達野へ。そして山裾を東進、住吉野。
その途中で撮影したのが、この写真。この山にはたくさんのお墓がありました。そこを東部自動車道が通ることになり、山に散在したたくさんのお墓は新しい墓地に整理され、キレイになりました。その墓地の一番上には、管理者不明のまま山にあった無縁墓が、まとめられてます。
そこは、高速道路の直下で、見晴らしの一番良い場所。
僕は、ここからの風景が、好きです。
いろんな形をした、いろんな色の田んぼが織りなす風景。そう。まさに「織りなす」という表現が相応しい、なんともいえない色彩と紋様の妙が、目を楽しませてくれます。
眼下の田んぼはもう稲刈りも済んで水が張られてます。稲刈り直前の黄色。まだこれからの緑。空の青。山の濃緑。幾何学模様。
そう。この、田んぼの幾何学模様がきれい。山へ行くと、棚田など、山の地形を利用した(せざるを得ない)田んぼの風景が幾何学的に美しいけど、平地の場合は、四角く区画されてる田んぼが多いですよね。これは、近代になっての農地改良、区画整理の賜物でもあるけど、古代からの遺産でも、あります。そう。条里制。
幾度もこのにっこりでは取り上げてきたけど、南国市を中心とした香長平野には、香長条里と呼ばれる見事な条里制が布かれてます。地理院地図でみたら一目瞭然。
こんな条里、誰がいつ、設計して構築したのか。
この条里が始まったのは、たぶん、律令時代。8世紀初め頃ね。まだ平城京ができるとかできんとかの時代だと思います。発掘調査の結果から、この条里に沿った官道の遺跡がたくさん各所でみつかってるから、間違いない。
今から1300年前に、こんなにも大掛かりな区画整理が可能であったのか。
こんなにも大掛かりな、地形をある程度無視したような条里制は、かなり強力な権力がないと、できんかったでしょうね。できません。
では、条里制を採用する目的は。
それはもう、租税を集めるためなんでしょう。班田収授法とか習ったけど、とにかく田んぼの面積が租税に直結するから、キチンと租税を集めるためにはキチンとした田んぼの面積や収穫高の算定が必要となり、いちいち面積を測る技術も暇もないので、一目瞭然の区画整理された田んぼにして、計算を簡単にした。とまあ、素人には想像できる訳で、それにしても1300年前にそんなこと断行した訳で、権力とはすごいもんだと感心してしまいます。
エジプトなんかでは、ナイル川の氾濫が土地を豊かにするのを毎年繰り返してたから、こんな条里を組んでも意味がなく、毎年毎年の耕地面積を測定する必要から幾何学が発展したんだろう、などと勝手に思ってます。
ではこんな日本では、何が発展したんだろう。官僚制でしょうかね。知らんけど。
さて、この風景。
ここを地理院地図で見ると、こう。条里制の区画に関係ない、地形に沿った区画の田んぼになってます。だから、四角くない、不思議な模様の田んぼ風景を、ここでは見ることができるのである。あります。
ここが香長条里に沿ってない理由は。地形によるものなのか。権力関係によるものなのか。
それは永遠の謎だけども、この美しい風景がここにあるのは、嬉しいこと。
ここで一休みしてから、会社まで田んぼの間の道を走ってやってきました。気分は最高。
さあ。今日も仕事仕事。