高知市街地の風景〔5915〕2019/06/26
2019年6月26日(水)曇り
さあ。曇り。きたぞきたぞ。いよいよXデーは近づいてきたのか。天気図見ても、梅雨入り間近。もう7月が近いけど。
さて。昨夜は、県外からのお客様。ひろめで飲んで、小料理屋で食べて。良い時間を過ごさせていただきました。ひろめ市場はひろめ屋敷で弘人屋敷。僕らが小学生の頃は、ごちゃごちゃした狭い道路が入り組んだ場所だったけど、今は観光名所になりました。
藩政期後期、土佐藩家老、深尾弘人(ふかおひろめ)さんの広大な屋敷があったから「弘人屋敷」。「深尾弘人」で検索したら、にっこりひまわりがいっぱい出てきたよ。知りたい方はそっちを読んでくださいな。
で、昨日書いた「高知市史考古編」。
その本には、弘人屋敷遺跡から、飛鳥時代奈良時代の土器片が出土してる話が書いてあります。そう。でもその「弘人屋敷遺跡」は、ひろめ市場のところではなくて、現在高知城歴史博物館がある場所ね。ここ。
つまり。秦泉寺廃寺遺跡とかの時代か、その少し後、大高坂山の周囲にも人が暮らしてた訳だ。
平安時代、紀貫之の時代は、現在の市街地はほとんど古浦戸湾の底だった、という話、よく聞きますよね。でもたぶん、一面の海であった、という風景ではなくて、所々に湿地があり、洲があり、港があり、陸地があったというそんな風景であったのではないか。
以前書いたように、現在高知城がある大高坂山からは、東へ舌状に洲が延びていたのは間違いないと思う。その洲が、どの時代にどこまで延びてたのか。どんな風景だったのか。これ、研究テーマとしては面白いと思います。誰かやってくれんだろうか。古代から近世に至る、現在の高知市街地の風景の変遷。それ再現できたら、すごい。
写真は今朝の追手筋。左手にひろめ市場。右手に土佐女子高校で、高知城の天守がクスノキの向こうに垣間見えてます。
手前のクスノキと、向こう側のクスノキ、大きさが違います。ひろめ市場と土佐女子の間のあの道は、藩政期の頃からあの幅の、お城前の広場みたいになってた場所。絵図を見ても、長方形の広場であること、わかります。
そして絵図では、今、撮影のために立ってる分離帯のところくらいまでは、上級武士の屋敷地で、道は今の追手筋の北半分もない広さでありました。
戦後の復興による都市計画まで、そうだった。追手前小学校の敷地は、この分離帯のところまであった訳です。地理院地図の、1947年に米軍が撮影した航空写真で見ると、その地形がよく判る。
つまり、こっから東の追手筋は、戦後の復興都市計画の中で広げられた道であり、分離帯もその時につくられ、クスノキも植えられたのでありました。
こっから西は、藩政期からこの広さで存在し、クスノキも、昔から植えられてたもの。だから、こっから西のクスノキと、こっから東のクスノキは、大きさが違うのであります。今は一本の追手筋だけども、こっから西と東では、成り立ちが違うのである。あります。
まだ、こっから東の追手筋が狭かった時代のことを覚えてる人、いらっしゃると思います。でも、僕らは知らない。ほんの数十年前の風景すら、忘れられてゆく。
ここがどんな風景だったのか。
だから、太古の昔からの高知市街地の風景変遷、再現したもの見てみたいです。誰か研究してくれんでしょうかね。