大津城、天竺城と関〔5914〕2019/06/25
2019年6月25日(火)快晴
今朝も雲ひとつない、快晴。爽やかな夏空が広がってます。梅雨は、まだ。
昨夜も走って帰ったので、今朝も自転車出勤。舟入川の土手の上。
ここは、関。大津の、関。この右手に、山に囲まれた地区があって、その界隈を関と呼びます。向こうに舟入川の堰が見えるけど、たぶん舟入川が開削された昔からあそこには堰が築かれ、地名も関になったんだろうと想像できます。舟入川の開削は、藩政期初期の野中兼山によるものだけども、たぶんこの界隈までは浦戸湾が入り込んだ汽水で、それまでも浦戸湾を往来する舟は、ここまで入り込んでたと思われます。交通の要衝。
ここの堰は、そこから灌漑用水を引っ張っていく、という役割のほかに、塩水がこっから上流に上っていかんようにする、という機能もあったんではないでしょうかね。灌漑用水に海水が混じらないようにね。ここは丁度、そんな場所になりますきに。
向こうの小山が、大津城のあった山。関を取り囲む山の、北東部分。この、標高46mの小山の上に、中世のお城がありました。大津城。天竺城とも呼ばれ、現在もその名残で「古城八幡宮」というお宮さんが鎮座まします。
守護代、細川氏の一族でもあったといわれる天竺氏が築いたと言われる、お城ね。
ついこないだ発刊された「高知市史考古編」に、県内各所の城郭についてかなり詳しく解説してくれてるけど、この大津城のもありました。写真下部に、そのページ。
どうやらこんな感じのお城でありました。なるほど。
古城八幡宮は、北側の電車通りから石段をまっすぐに上がり、てっぺんで右折して突き当たった場所に鎮座まします。
この図面によると、石段上った場所が詰の段。そこには本ノ丸というホノギが残ってるそう。古城八幡宮ハ二ノ丸、その西に堀切を挟んで三ノ丸、と続いてます。西からあがっていく構造だったんでしょうか。つまり、関の集落の方から上っていくようになってみたい。今みたいに北からではなくて。
この城を、長宗我部国親が狙った訳だ。国親さん、どうやって攻め込んだだろう。北側は湿地帯で急坂。東の明見と、西の関の方から取り囲み、包囲殲滅戦を仕掛けたんでしょうかね。
そうそう。こないだ、大津御所のこと書きました。元親に敗れた一条兼定の子息、一条内政が、元親によって住まわされた場所。大津御所と呼ばれ、それはこの山麓の川の畔にあったのかな?などと書いた訳だけども、この高知市史考古編によれば、あの山のてっぺんの城郭が、そのまま大津御所となっていたような書きっぷり。なるほど、そうか。
「御所」などと言うから、平場の立地を勝手に想像してたけど、山のてっぺんにあっても良い訳だ。
山の周囲を固めれば、逃走する訳にも参らんしね。なるほど、そうか。日々是勉強。日に日に章かなり、だ。
この高知市史考古編、県内各所の中世の城郭について、こんな図解入りでかなり詳しく解説してくれてます。編纂委員会の委員長が、宅間先生ですきんね。土佐史談会会長の、宅間先生。専門が中世の城郭ですもの。さすが宅間先生。
この調査図をもとに、一度、この小山をたつくってみようと誓いました。また、楽しみが増えてしまったではないか。宅間先生のせいだ。