旧石器時代の浦戸湾と土佐海援丸〔5913〕2019/06/24
2019年6月24日(月)快晴!
快晴。雲ひとつない、爽やかに晴れ渡った空。6月24日とは思えない爽やかさ。昨日夕刻の豪雨が雲を吹き飛ばした、という感じ。それにしても昨日の雨、なかなかのものでした。時間雨量が、高知市でも66ミリですきんね。枝川で93ミリだって。ちょっとした集中豪雨。だけども、雨に強い高知のこと、さしたる被害もなくて、豪雨の後は晴れ上がって心地よい。
写真は今朝、4時前の浦戸湾。弘化台からタナスカ方面へと渡る新青柳橋の上から撮影したもの。空に輝く一番明るい星は、土星。その下に南斗六星がキレイに写ってます。
南斗六星は、柄杓がうつ伏せになったみたいに浮かんでますが、右端、つまり柄の方の先っぽの星、見えます?
5つの星は結構ハッキリ見えるけど、6番目の星まで見える人は、なかなかの視力だと思いました。どうでも良いけど。
こうやって満々と水が湛えられた浦戸湾を見られるようになったのは、今から1万数千年前のこと。正確には、今より14700年前から12800年前の急激な温暖化によるものね。それ以前は氷期、寒冷期で、海水面は今より100m以上低かった、てな話はにっこり読者の基礎知識。しつこいくらいに書いてきました。
つまり。この目の前には深い谷が刻まれ、あの向こうの、西孕と東孕の間は峡谷のようになってた訳だ。たぶん。四国山地から流れ出た川は、この前を急流になって下ってゆき、今よりも南にあった海岸線から太平洋に流れ出していた、そんな時代。
高知県中部には、旧石器時代の遺跡、本当に少ないです。南国市の奥谷南遺跡はご紹介したことあるけど、他にはほとんど、無い。大津と介良の間、高間原山にある高間原古墳から、旧石器時代の細石刃石核が出土してますが、旧石器時代の遺跡は、県西部に集中している。人類は、どうやらあっちからどっさり高知へ入ってきたらしい。
でも、当時の海岸線は、現在は100m以上深い海底にある訳で、当時海岸で暮らしていた人々が居たとしたら、その痕跡は海の底か、堆積した土砂の下に埋まっている訳で、それがわからないことには、旧石器時代の本当の姿はわからない、と思うのであります。正論でしょ?
この眼前の海の底に堆積した土砂の、そのずっとずっと下で、誰か暮らしていた痕跡があるのでしょうか。いつしか、地球に次の氷期が訪れたときに海水面が再び下がる。今浦戸湾の底に堆積してる土砂を、山から流れてきた川が開削する。開削された崖から、人類が暮らした化石が発見される。そんな物語が、この風景から妄想できると思います。思いませんか?
左手に停泊中の白い船は「土佐海援丸」。高知県立高知海洋高等学校の実習船ね。
この船で学ぶ高校生たちの中から、たくさんの、将来の海の男、海の女が育っていくのである。夢と希望を乗せる、船。
爽やかに晴れ上がった月曜の朝ですきんね。
旧石器時代への妄想は置いといて、将来への夢と希望を膨らませながら、さあ、仕事仕事。