ベンツ〔5901〕2019/06/12
2019年6月12日(水)晴れ
昨日も夕刻、降りました。それもなかなかの雨脚で。時化みたいに降りましたね。昨日も走って帰ることにしてたので、あの雨の中走れるのか、と期待してました。しかし雨はそんなに長くは降り続かず、僕が走って帰る頃合いには晴れ上がってきてました。残念。あんな雨の中、走りたかったのに。残念。
で、昨夜走って帰ったのは、この舟入川沿い。川沿いの土手の上は、安全で快適に走れます。今朝は自転車で、昨日走って帰ったのと逆ルートを快走しての、出勤。ここは舟戸。
昨日も書いたけど、地名には、その地名になった歴史、理由がある。ただね。昨日の衣笠の話ですが、考えていると、葬送の地と考えるのはちょっと飛躍しすぎかな、とも思えてきました。京都の衣笠に、その風景が似ているから衣笠。それで良いような気もします。紀貫之さんが何を考え、どんな発言したのかは、今となっては検証のしようがないですきんね。
その紀貫之さんが、土佐国司の任期を終えて船出したと伝えられるのが、この界隈。つまりこの界隈まで海が広がり、ここに、古代土佐有数の港、大津があった訳だ。
地理院地図の土地条件図で見るとこんな感じ。さて。港は、どこにどのように築かれてたのか。この十字の場所、ちょっと気になりますよね。なんか、港っぽい。
今朝の写真の、この対岸あたりが、この十字の場所ね。この界隈、発掘調査してみて欲しいですよね。古代大津の真実を知る、ということで。
こないだ、18年ほど前に、土佐史談会に入会した頃、大津地区史跡巡りに参加した、という話を書きました。その時のことだったと思う。どなたかが、ドライブインベンツがあった場所あたりが、港があった場所だと聞いたことがある、と言うておられました。なんか、記憶に残ってます。
なるほど。ドライブイン・ベンツか。懐かしい。
ドライブイン・ベンツは、南国バイパスの、この辺りにあったことを覚えておられる方は、多いと思う。でも、最初は、この写真の対岸の電車通り沿いにありました。いや、あったと思う。確かな記憶ではないけども。
ドライブインというくらいで、車で立ち寄って食事をするレストラン。自動車の通行量が多い場所でないと、成り立たない。なので、南国バイパスができて、ドライブイン・ベンツは、南国バイパス沿いへと移転して行った訳だけども、最初にできたのは、ここだった。と、思う。違うてたらゴメンナサイ。
そもそもドライブイン。ドライブイン・ベンツは、高知での「ドライブイン」というものの嚆矢だった。やっと高知でも、自動車に乗って家族でどこかへ出掛ける、という生活パターンが生まれ始めてた時代。高度成長期の時代。その頃に、都会で流行り始めていた「ドライブイン」を高知でもやってみよう、ということで、ドライブイン・ベンツは始まったんだと思います。勝手に思ってるだけですが。
その立地がここだった(かもしれない)、ということは、この対岸の電車通りが、高知でも有数の、自動車通行量の多い、そしてちょっと郊外の立地だった、ということだ。今からは想像しにくいけど、そんな時代だった。
なんで僕がドライブイン・ベンツに拘るのか。それはね、子供の頃の記憶と連動しているから。
そう。この対岸の電車通りは、幼児の頃、毎週のように父親の運転する車に乗って通っていた。僕が4歳のとき、昭和40年に、南国工場(日章の工場ね)ができました。まだ稼働し始めの工場なので、製造関係を担当していた僕の父は、毎日のように日章へでかけてました。
日曜日になると、僕らを車に乗せて、連れて行く。父が仕事している間は、僕らは工場の水路とか物部川の土手とかで遊ぶ。そんな日々だった。
そんな日々の中で覚えてるのが「ドライブイン・ベンツ」。「ドライブイン」というとてもハイカラなレストランがあって、そこでたまに食事しました。楽しかった。そんな日々。そんな記憶。
だから僕にとって、電車通りにあったドライブイン・ベンツは特別で、記憶にしっかりと刻み込まれているのでありました。
まだ幼児だったので、正確な場所の記憶は、ない。あの史跡巡りに参加されてた地元の方にとっては、ドライブイン・ベンツがどこにあった、などという話は常識中の常識だったんだろうけど。
「ドライブイン」という名称がこの世から姿を消しつつある今、ドライブイン・ベンツ跡地というのは、既に僕にとっては「史跡」なのだ。
だから、ここは「舟戸」なんだけど、僕にとっては「ベンツ」という地名でも良いのである。