大津と明見〔5888〕2019/05/30
2019年5月30日(木)晴れ
五月晴れ。なんだけども、五月も明日でおしまい。日に日に新緑も濃く、紫陽花が咲きはじめる季節。昨日は走って帰ってたので、今朝は自転車出勤。涼しい5月の風を受けながらの自転車出勤、なんと心地よい出勤でしょうか。
ここは大津の東端。その向こうに一条橋という橋があって、その向こうは南国市明見。みょうけん。
長宗我部地検帳に「妙現」とか「妙見」とかのホノギ名が見えるから、そのころから「みょうけん」だったことは、わかります。元々は妙見大菩薩の信仰からきてますよね、これは。妙見大菩薩とか妙見大明神とか呼ばれ、地域の神様仏様として尊崇されてきた、みょうけん様。
現在も、明見には、星神社が鎮座まします。明治初めの神仏分離令を受けて、全国の妙見様は星神社になりました。弁天様が厳島神社になったみたいに。
妙見様をこの地に創建したのは、戦国期にこの右手の山を本拠として勢力を持っていた、天竺氏だとわれてます。守護代細川氏につながる天竺氏。長宗我部国親さんが、土佐制覇の最初の標的にしたのが、ここ天竺城の天竺氏。そんな話、幾度も書いてきたので、にっこり読者の基礎知識ですね。この小山の上に今も残る城八幡。
正面に教会。そして、その教会が設立した女子高校、清和学園が、その向こうに広がる平地にあります。明見の西端。
その界隈には今も池が残りますが、かつては的ヶ池、西ノ池、黒沼、鍋ヶ池、八郎兵衛という5つの沼があったそうです。そして、古墳群。明見彦山古墳群という、県下でも有名な古墳群があるけど、この右手の山に連なる高天原山にもたくさんの古墳。そして、この西側の、山に取り囲まれた関という地区にも、その山裾に古墳がたくさん。
弥生後期に、明見に人々が住み始めると、どうやらかなりの有力者が治める重要な拠点となった雰囲気がありますね、この界隈。
確かに、航空写真で見るとこんな感じ。少し西には良港、大津。山に囲まれて静かな、そして水の豊かな土地。洪水や津波から守られた土地。
戦国期、長宗我部元親に攻められた一条内政が、元親に降ってから住んだのは大津御所。この界隈だったことは知ってるけど、正確にはどの辺だったんでしょうかね。
その向こうとか、発掘したら何か出てくるかも知れません。船戸界隈も、キチンと調査して発掘すれば、港の遺構、出てくるかも知れんと思ってます。
この辺りを通るたびに、その歴史の深さに圧倒されてしまう。しまいませんか?
今は城八幡と古墳にその面影を残すばかり。
そんな明見。
清和学園では、とても行き届いたキメの細かい教育が行われていると聞きます。こないだも、清和学園に子供を行かせて本当に良かった、というお母さんの声を聞いたことでした。