日本で最初で日本で最後〔5887〕2019/05/29
2019年5月29日(水)薄曇り
梅雨入りは、まだ。今日明日は晴れで、週間予報でも雨マークはない。まだ、梅雨前線は北上してこんみたいね。
今朝も少し遅い出勤。昨夜は、あるお客様ホテルのビヤガーデン開きと、それを途中で抜け出しての、関東からのお客様との食事。毎日毎日よく飲んでます。これでダイエットのリバウンドをしないようにするってえのは、なかなか大変だ。大変だけども頑張ります。今朝も欠かさず菜食健美。
ビヤガーデン開きには、会社の、製造部若手2名、総務部女性1名、営業課長、それに僕の合計5名で参加してました。製造部のY君は、大卒入社2年目。若い若い。お母さんは何歳?とか、総務部の女性が質問する。総務部の女性Nさんは、高校時代、バレーボールで活躍してた訳ですが、Y君のお母さんも、バレーボールをやってた、という話で盛り上がったのでありました。
そして。お母さん、どこの中学やった?旧姓は?
ここで飛び出した衝撃の事実。Y君のお母さん、総務部Nさんの、中学校バレー部の2年後輩だった。いやはやビックリ高知は狭い。Nさん、とても喜んでたけど、年齢もしんみりと感じてました。こうやって時代はめぐり、絡み合いながら過ぎてゆく。Nさんが入社した頃のことも、思い出したことでした。
そんな訳で、今朝5時半頃の五台山を、デジカメのズームで撮影。こんなにもはっきりくっきり見える、五台山てっぺんの展望台。あの屋上が見晴らし抜群の展望台になってて、2階はカフェ「パ・ノ・ラ・マ」様。スープカレーが美味しいです。
屋上部分に見える丸い出っ張りは、幾度も書いてきたけど、ロープモノレールの痕跡だ。あの柱の下で、ロープモノレールが転回してました。昭和44年から昭和53年まで、青柳橋の西詰と五台山山頂を4分で結んでた、ロープモノレール。
なぜ、「ロープウェイ」ではなくて「ロープモノレール」と呼ばれてたのか。それはたぶん、「自走式」だったからね。エンジンが、あの水色の丸い個体一個一個についてて、自分で走る方式でした。だから、たぶん、運転手さんが乗ってたんだと思います。
たった9年の営業だったけど、強烈に覚えてるロープモノレール。
あの山頂は「見国停留場」というのが正式名称。青柳橋西詰は「青柳停留場」。
誰が名付けたんだろうか。普通なら「山頂駅」「山麓駅」とかにしそうなものだけども。でも、「停留場」というのが良いね。他のロープウェイなんかとはちょっと違うんだよ、というプライドの表明でもあったのかなかったのか。で、ウィキで「索道」という項目を見てみると、ちゃんとその中に「ロープモノレール」というサブ項目が立ってて、こう書いてる。
ロープモノレール
搬器自体に動力を備え、これによって油圧モーターを作動させ、支索上を自走する方式。日本においては、高知市の五台山で1969年から1978年にかけて、山麓から山頂の展望台まで「五台山ロープモノレール」が運行されていた。
そうか。日本で最初の試みだった訳だ。進取の精神。気概。その気概が「停留場」という名称にも現れているのかどうなのかは、知らんけど。で、こう書いてるということは、その後、この方式が採用された新しいロープモノレールは作られなかった、ということだ。なんか、ちょっと悲しいけど、日本初に取り組んでみたというその心意気や、よし。
あそこに見える建物は、日本初の志であり、日本で最後の想いの痕跡、という訳だ。ロープモノレールに乗ったという僕らの記憶は、日本では最初のものであり、最後のものでもある、大切な記憶だったのである。