飛鳥山2〔5883〕2019/05/25
2019年5月25日(土)晴れ!
昨日の最終便で帰ってきたので、今朝は高知。東京出張だと、平気で一日15,000歩くらいは歩いてしまいますね。高知で生活してると、ちょっと油断しただけで一日3,000歩、とか、酷いことになってしまうのに。足腰は、東京で暮らす人たちの方が強いと思います。間違いなく。
そんなことではいかんので、意識して歩いたり走ったりしよう。と、言う訳で、今朝は走って会社へやって来ました。久々の出勤ラン。まずは、電車通りを領石通りまで走る。途中、舟入川の堤防上で、向こうから見たような男が走ってくる。弊社総務のM君でした。今日はお休みとのことで、朝からランニング。良いぞ良いぞ、 M君。来年は僕も一緒に龍馬マラソン走るからね。
領石通り電停の近く。草々が鬱蒼と生える山道を少し登ると、こんな場所に、出ます。ここは、あまり知られてないけど、大切な人物の墓所とされる場所。
今から18年くらい前でしょうか。僕が土佐史に興味を抱き始めた、そんな頃。土佐史談会に入会し、すぐに参加したのが大津地区の史跡巡りだった。まだ若かったね~、僕も。
土佐史のことなんぞ、何も知らない若造。で、その史跡巡りで地元の方にご案内して頂いた史跡のひとつが、ここ。
あの時は、「長宗我部元親に蹴鞠を教えた人物の墓がここにある」といった説明で、正直「なんだそりゃ」という感想だったのであることを正直に告白するけど、実はなかなかの重要な人物だったのだ。歴史の知識が増えてから思い返せば。
飛鳥井曽衣。あすかいそえ。
藤原北家の流れをくむ、名家中の名家、飛鳥井家。代々、和歌と蹴鞠を家芸として伝える家系ね。で、その家に生まれた飛鳥井曽衣、本名雅量は、戦国の戦乱を避け、親族でもあった一条氏を頼って、土佐へ。一条家の賓客となった訳ですな。
長宗我部氏とも関係を持つ。元親さんにしてみても、中央政界と繋がりのある飛鳥井さんは、無下には出来ない相手だったんだと思います。一条内政が元親に降って大津御所に住むようになると、飛鳥井さんも、大津へ。一条氏滅亡後は長宗我部に仕え、蹴鞠を教えたりした、という話。
土佐に、都の文化、学問などを運んできた人物、とも言えましょう。そんな人物の墓所が、大津にあります。
万葉集がブームになってますが、江戸時代の万葉集学者として有名な鹿持雅澄さんは、その子孫になる訳で、飛鳥井曽衣さんが土佐に来なかったら、土佐の歴史も少し変わったものになっていたかも、知れません。
ここは神聖な場所、とされてきたと言います。18年前の記憶によりますれば、この飛鳥井曽衣さんの墓所がある山からは、小石一つ取っただけでもバチが当たる、と言われてたとか言われてなかったとか、そんな話だったと思います。忘れたけど。バチ当たりますな。
「飛鳥井曽衣之碑」とだけ刻まれた丸い石。祠。その左下には、古い五輪塔の痕跡。そんな風情の飛鳥山。そうそう。ここ、飛鳥山とも呼ぶらしいです。飛鳥井さんにちなんで。だとすると、東京の飛鳥山に続き、二日続けて飛鳥山、ということになるのか。なんか、不思議。飛鳥山が僕を呼ぶ。
今朝は、ここから関、明見を抜けて田んぼ道をくねくねくねくね走って会社まで走りました。途中、昔弊社で働いてくれてたカネミさんにバッタリ。お元気そうでした。懐かしい。
朝からあんなことやこんなこと、濃密な時間を過ごしました。良い土曜日になりそうです。