田んぼのある風景〔5872〕2019/05/14
2019年5月14日(火)薄曇り
昨日は会社から走って帰りました。このところ、夜に高知市内で会合とか宴会とかが続いてて、車で帰る日々だったもので、久々。でも、家まで走って帰った訳ではないです。
昼間。潮見台ニュータウン3丁目のここに、折り畳み自転車を車で運んでおきました。会社から走って、この標高140mの場所まで団地の坂道を駆け上がり、自転車に乗って家まで帰る、という素敵なプランね。
坂道を、負荷をかけながら駆け上る苦しさと楽しさよ。心臓ばくばく、汗びっしょり、ふうふうゼエゼエ。そして腕立て伏せと腹筋をしてから呼吸を整える。
自転車で坂道を下ると、初夏の風が火照った身体を吹き抜けて気持ち良いの良くないの。良いんですけども。
そんな訳で、今朝は自転車での出勤。交通量の多い国道は通らず、田んぼの中の道や、高速道路の高架の下の道を走ってきました。
写真は、今朝4時半の高須。
ここ。この場所から東の方角を撮影した写真。
国道の灯り。介良富士。そして逞しく育つ、緑の稲。水稲。ここに広がる高須の良田。
高須は、その地名からもわかるように、かつての湿地帯。浦戸湾はここまで広がっていました。そこに堤や堰を構築して田んぼにしたのは、いつの頃だったのか。明治以降なんでしょうかね。
戦後になると、もう、既に田んぼでした。
1960年代の航空写真が、これ。その後南国バイパスができ、その北側は市街化調整区域から外れたと見えて、家々がひしめく街になった。でも、バイパスから南は、昔と変わらない田んぼの風景。
いや、実際は、かなり変わってます。区画整理と取水ポンプとで。
この写真の時代。ここは湿田だった。田んぼの畦は水路のようになっており、そこを田舟を使って往来しながら農作業をしていた、そんな風景。
ここを行き交っていた舟は十石舟。十石舟とはどれくらいの大きさかと言えば、こんなのね。京都伏見に、観光十石舟が遊覧船として運行されてて、写真がありました。
そう。結構、大きい。そんな田舟が行き交う湿田の風景が、高須だったのでありました。今は圃場整備が終わり、乾田となり、水はポンプでくみ上げられる、高須の田んぼ。
こないだ、潮江で古くから農家さんをやっている熊澤さんが、家に昔の田舟を大切に保管してる、とおっしゃっておられました。その田舟は、十石舟よりはかなり小さい。それでも近在ん農家の田舟よりも幅は広い舟なんだそう。近在の農家が使ってた田舟はもっと幅も狭くて小さい舟で、それこそ畦を往来して収穫物を運んだりしたものらしいですね。
高知の農村で田舟が使われていた風景、僕は見たことないので、知らない。それは、土地土地、地域地域、圃場圃場でそれぞれだったのでしょうかね。大きな十石舟は、この航空写真の風景の中で、どんな風に使われてたのか、誰が教えて欲しいですね。
春先には一面のコスモス畑になる、この田んぼ。
たぶん、ここを市街化調整区域として残すことに関しては、様々な利害がからんだせめぎ合いがあったと想像します。でも、先人の志と努力のお陰で、僕らはこの風景を子々孫々に残していけます。十石舟は、なくなったけど。
確実に人口が減少していくこの都市で、この風景を残してきたことには、お金には変えられない価値があるな~、などと思いながら、未明の田んぼ道を自転車で走る朝。