文学としての白太夫〔5824〕2019/03/27
2019年3月27日(水)晴れ!
今日はオーテピア。4月から、飲用向け生乳の価格が改定され、弊社からの商品卸価格も改定されます。それに伴い、商品マスタとかを大幅にメンテナンスする必要がありまして、今日はその作業に没頭。皆様、4月から牛乳などの価格が少し上がりますが、ご容赦ください。昨日は高知県酪農連合協議会の総会でしたが、酪農家さん達も大変なんでございます。なんとがご理解賜り、引き続いてのご愛顧を伏して伏して伏して伏してお願いするところでございます。よろしくお願い致します。
で、お昼休み。こないだから気になっていた、松木白太夫さんの関連の文献、調べてみました。中村幸彦さんという関西大学の先生が1977年8月に「文学」という雑誌へ寄稿した「白太夫考」という文書ですね。なかなか面白いです、これ。
昨日、僕の、読書に対する志向みたいなのが漏れてしまいましたが、やはり、本というのは読み方があり、書いた人の意図とかを考えることは大切だ、と思います。
白太夫「伝説」も、色んな人々の意図があって作り上げられてきたものである、という論考。そう。白太夫は「伝説」なのである。
そもそも、当初の天神様の縁起には、この白太夫なる人物はまったく登場しない。後世の色んな書物とかに出てくる白太夫のお話は、どうやら、中世に成立した「菅家瑞応録」という謎の書物がネタ本になってることが多い、ということが判明してきた、という話ね。
天神様の縁起は、布教の材料として、そして文学として、更に講談、講釈として面白い物語が付け加えられ、脚色されながら成長してきた、という歴史があります。そんな脚色の一つとして、後世になって書き加えられたものに、白太夫伝説があるのでありました。
丁度その頃(中世ね)、摂関家の後ろ盾を得た吉田神道が勢力を増す。伊勢神宮、内宮外宮の御神霊が、なんと京都吉田山の斎場に降臨したとして、伊勢神宮の御神体を吉田神社で祀り始めた、そんな時代。吉田神道が勢力を増し、伊勢神宮が力を弱めていた、そんな時代。危機感をもった伊勢信仰の遊行布教師たちが、全国を渡り歩きながら、天神信仰に白太夫信仰を加味する形で伊勢信仰をも広めていったのではないか、という説が、この論考には書かれています。
その広まる過程で、外宮、豊受大神の神官である松木家と白太夫がくっつき、松木春彦という人物が白太夫と同一人物であるとされるようになっていった、と。なるほど。
そもそも菅公を祀る天神様と縁が深かったのは、梅ではなくて松。その神木である松の木と、天神誕生の2月18日が春であることがくっついて、松木春彦なる人物ができあがり、白太夫と同一になっていったのではないか、と想像してます。
その物語を最初につくったのは、土佐の遊行布教師かも知れない。こないだ書いた「雲門寺」というのは、本当は実在しない空想のお寺かも知れない、とも書かれてます。なるほど。
大津の、あの白太夫神社とその墓所、そして雲門寺は、空想の所産なのか。もはや松木とか松本とかの話を超えて(いや、物語としては松木が正しい)、この白太夫さんの話は、史実を語る話ではなうて、文学、物語として創作され、文学と認識されつつ発展してきたもの、という論考でした。
説得力、あります。
僕らも、そのつもりで、伝説に向き合う必要があるのだろうか。それは僕にはわからない。でも、あの白太夫の墓所がある場所は、古代の浦戸湾の港を見下ろす最高の立地にあったことは間違い無く、そこに大きなお寺さんがあったとしてもおかしくない。
そこを雲門寺と比定したのは誰なのか知らんけど、物語の舞台設定としては最高の場所だとも、思います。
伝説の読み方。本の読み方。そこに書かれていることに込められた、思い。いろいろあるから、面白い。