大森貝塚と東海道線〔5811〕2019/03/14
2019年3月14日(木)晴れ
そんな訳で今朝は東京。品川界隈に泊まってました。昨夜は久々にホルモンなどというものを食べてしまったので、今朝はちくと、走らんといかん。5時に起きだして10kmくらい走ってきました。ああ。気持ちいい。
今日は東海道線沿いを南下してみました。大森貝塚、どんな感じなのか見てみたかったし。
実は今から16年前、大森貝塚の碑のところで撮影したにっこりひまわりをやってます。2003年11月のこと。あの頃。全然地学というものに興味がなかったので、こんな史跡があるんだ、くらいの感慨だったのがもったいない。今回はちゃんと地学的に見てみないと。
ところが。実は大森貝塚には、「本家」論争があったんだそう。モースが論文に発掘場所の詳細を書かなかったがために、実際に発見して発掘したのはどこなのか、特定できなかったんだって。今ではちょっと、信じられないような、実話。
来日し、横浜から汽車に乗って東京へ向かう途中、大森駅を過ぎたところで見つけた、ということはわかってすので、まあ、大体のことは、わかる。
地理院地図を見てみると。確かに大森貝塚が二つあるではないか。しかもこれ、北側が品川区で南側が大田区ということで、区が違うことも論争に拍車をかけたんだそう。
結果。ウィキによりますれば、品川区側の、現在大森貝塚遺跡庭園になってる方の当時の土地所有者が、調査の補償金をもらったという文書が発見され、本家論争に決着がついた、とされてます。
2003年に僕が紹介した大森貝塚は大田区側。そして今朝は、その少しだけ北にある品川区側の「本家」大森貝塚へ行ってました。
でも、遺跡公園の開場は9時。あいてない。少し南の、東海道線の上の歩道橋から撮影してみました。左手の森が遺跡公園。
明治10年。エドワード・モースは、ここを汽車で北上中、見つけた訳だ。東海道線は、更新世段丘の東の裾、段丘崖の下に通されました。貝塚は、海辺の、段丘崖から降る斜面にできあがっていたんであります。土地条件図だと、こう。更新世段丘の、段丘崖から降る斜面に大森貝塚。そして東海道線。
今朝の写真には、下りの東海道線電車が写ってます。16年前の写真にも、当時の東海道線の電車が。あの、オレンジと緑の東海道線、既に懐かしくなってしまった。東京からの東海道線で、あの色目の電車が走ってたのは、もう、随分と前のこと。
このにっこりひまわりも、なんか、歴史アーカイブみたいになってきましたな。
縄文後期という貝塚の歴史もすごいけど、大森貝塚は、日本の考古学の、まさに発祥の地であった価値がすごいと思う。
ここで汽車から貝塚をみつけたモースさんに感謝しよう。それにしてもモースさん、見つけたときは声を上げて喜んだでしょうな。わかるわかる。