あの時の記憶〔5809〕2019/03/12
2019年3月12日(火)晴れ
8年前のあの日、あの時刻、自分が何をしてたのかは皆さんもハッキリと覚えてると思います。僕も、鮮明に覚えてる。
土佐道路の「ふくし交流プラザ」で、県の主催の、食品外販についての会合がありました。15時からということで、車で出かけた僕は、ふくし交流プラザの駐車場に車を停めた。その時、携帯電話に地震速報が表示される。よく、震度3とかの地震が表示されてたので、いつものそんな感じの速報かな、と思って見てみたら、震度7とか、とんでもない数値が表示されてて、何かの間違いではないかと思ったことを鮮明に記憶してます。
ともあれ会議だ、ということで会場に上がり、予定通り会議は開催される。でも、携帯には続々と深刻な状況報告が入ってきている。そんな感じだった。
会議を早めに切り上げて、1階のロビーに降りたら、そこに置いてあるテレビに衝撃的な生放送映像が映し出されていました。ヘリコプターからの、津波が何もかもを飲み込んでいく映像。今思い出しても、背筋が凍る映像が、テレビから流れている。これはなんか、すごいことになっているぞ、と思い、取り敢えず会社へ帰ろう、と車を走らせる。
それからの混乱は、あまり覚えてません。ただ。
津波は高知港へも到達してました。須崎では2.6mという津波を観測し、かなりの被害も出ましたが、高知港でも、小さいながら幾度も津波が押し寄せていました。それは、それこそ幾度も幾度も。
ここは葛島橋西詰。今朝、自転車で出勤途上に歩道橋の上から葛島橋方向を撮影しました。僕が覚えているのは、この葛島橋を車で走っていて、橋の下に結構な波が押し寄せていた風景。これが、津波か、と、身体が緊張したことを覚えてます。
ずっと遠くの大地震と思っていたのに、目の前にその地震が現れた、という感じ。胸がドキドキしました。
みんな、それぞれの3.11の記憶を持っていると思います。もちろん、直接被災された皆さんは悲惨で、本当に悲惨で、言葉も出ないくらいですが、日本人なら多かれ少なかれ、みんな、影響を受けました。あれから8年。
今朝の高知新聞は、昨日行われた追悼式や復興の様子などが特集されてます。
かつての大地震との違いは、原発。悲しい現実を、忘れてはならない。これはもう、為政者の矜恃の問題かも知れません。
ここを通ると、時々、あの日の波を思い出します。そして、かならずやってくる南海地震への恐怖も湧き上がってくる。津波は幾度も幾度もやってくる、という記憶。
備えあっても憂いはあるが、備えがないよりは随分マシ。これが地球と向き合う心構えなのかも知れません。