8年〔5808〕2019/03/11
2019年3月11日(月)晴れ
一昨日のろうきん駅伝の模様、営業女子のSさんがFacebookページに動画をUPしてくれました。よくできてます。ぜひぜひ、ご覧になってみてください。
あんな楽しいことができるのも、平穏な生活があってこそ。平穏な生活のありがたさ。
8年、経ちました。その間に、色んなことがあり、色んなことが変わったり、変わらなかったり。
あの大地震の当日朝は、自転車出勤の途中、田んぼの水張りの様子を書いてます。その日、あんなことになるとは夢にも思わず。
そう。高知では、そろそろ田植えの準備が始まる季節だった。でも、東北ではまだまだ厳しい寒さが残る、そんな時期に発生した大地震、大津波。あの大災害の後、僕が、どんな精神状態でどんなことを考えてたのか、にっこりを読んでみるとよくわかります。
大震災翌日。本当の自然災害の恐ろしさを、僕らは、どれだけ真剣に受け止めてきただろうか、と書いてます。あの大震災が気付かせてきれたことは、大きい。あの大震災がきっかけになって、災害想定が見直され、対策が練られ、避難タワーや避難路が整備されて防災意識が急激に高まりました。
大震災翌々日。野市、上岡八幡宮さん。安政南海地震で、津波がこの西の物部川原まで遡上してきたことを刻む地震碑のこと、書いてます。先人は、ちゃんと、こういった教えを残してくれている。それをもっと僕らは知っとかないといけない、という話。
その翌日は、赤岡、飛鳥神社さん。安政南海地震の様子を、国学者で、役人であった徳永千規さんという方が文章にして、巨石に刻んだ地震碑。ここに書いてあることは、本当に示唆に富んでます。安政南海地震の前日、安政東海地震が起こってますが、その安政東海地震による潮位の異常も、記録されている地震碑。このときは、一日の時間差で連動してます。赤岡では、宝永の地震の記憶が残っており、皆、避難して死者が出なかった、ということ。
翌日は手結の観音山。ここで初めて「命山」という言葉がでてきます。手結の観音山には、数百人の地元民が逃げてきて助かったので、「命山」として後世に伝えていくことにした、という碑文。そして、この碑が教えてくれる重要なことは、津波は幾度も押し寄せる、ということ。どうやらこの記録では、津波の規模は第三波が一番大きかったようです。だから、第一波の後で家に戻ったりしては絶対にいかん、という戒めが刻まれてます。
その翌日が、宇佐の地震碑。宝永地震の言い伝えを信じて取り敢えず山手へと逃げ登った者は全員助かり、食べ物や衣類を用意してから逃げようとした者は、流されてしまった、という内容が痛い。とにかく、高台へ逃げろ、という戒め。
その翌日が十市、琴平山山上の、琴平神社玉垣。
このように、県内各所に残された地震津波の記録のことを、立て続けに書いてます。
あれから色んなことが変わり、変わらない。
避難タワー、たくさんできました。そして念願の県内「命山」第1号が、ここ。高知市の竹島町にできた「命山」。タワーでなくて山。山は、普段は公園にできるし、打ち上げられて助かることも、ある。避難機能としては、タワーよりも優れていると思います。まだ、完成してませんね。植栽工事が今月15日まで、公衆トイレが今月16日までの工期になってるけど、それで完成だんでしょうか。待ち遠しい待ち遠しい「命山」の完成。
福島の原発被災は、まだまだ、なんにも進んでいない。かつての大地震、大津波との一番大きな違いは、ここでしょう。いくら「命山」を作っても、原発事故を防ぐことは、できない。
変わったもの。変わらないもの。
色んなことを考えさせられた、この8年でした。未来のために、僕らは今、何をするべきなのか、しないべきなのか。この日が来るたびに、そんなことを考える。